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2022/01/12

スキー記念日/スキーの日

1月12日
水曜日

スキー記念日/スキーの日

1911年(明治44年)1月12日

オーストリア陸軍のレルヒ少佐が、
新潟県高田(現在の上越市)
の陸軍高田歩兵第58連隊の青年将校に、
日本で初めてスキーの指導を行なったことから。

スポーツ用品メーカー・ミズノの直営店・
エスポートミズノが
1994年(平成6年)に制定。

1902年(明治35年)に起きた
210名もの犠牲者を出した
登山史上最悪の遭難事故
八甲田山の雪中行軍で
日本人がスキーさえ知っていれば
あんな悲惨な遭難事故は
起きていないとの
海外の批評を受けて

オーストリア軍の
レルヒ少佐が日本軍に
スキーと言う物を
教えに来てくれたんですよ

スキー記念日/スキーの日

2022/01/11

鏡開き

1月11日
火曜日
残り戎

鏡開き

鏡開き(かがみびらき)
・鏡割り(かがみわり)とは、
正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、

日本の年中行事である。

神仏に感謝し、
無病息災などを祈って、
供えられた餅を頂き、
汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。

江戸時代、
新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、
武家において
新年の11日(もと20日)に行われる行事で
鎧などの具足に供えた具足餅を下げて
雑煮などにして食し
「刃柄(はつか)」を祝うとした行事。

また、
女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを
「初顔」を祝うといった。

この武家社会の風習が一般化したものである。

江戸城では、
重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、
汁粉などにして食べた。

刃物で餅を切るのは
切腹を連想させるので手や木鎚で割り、
「切る」「割る」という言葉を避けて
「開く」という言葉を使用する
(「開き」は「割り」の忌み言葉)。

鏡は円満を、開くは末広がりを意味する。

また、
鏡餅を食すことを「歯固め」という。

これは、硬いものを食べ、
歯を丈夫にして、
年神様に長寿を祈るためという。

鏡餅の割れ方で占いをする地域もあり、
「鏡餅の割れが多ければ豊作」と言われている。

武家の具足式を受け継ぎ、
柔道場・剣道場などでは
現在も鏡開き式を新年に行うところもある。

関東を中心にした地域では、
年神(歳神)へのお供えが
松の内(1月7日)に終わったあとの
1月11日に行われる
(土日祝日などにより異なる場合もある)。

元々は松の内が終わる
小正月(1月15日 (旧暦))後の
1月20日 (旧暦)に行われていたが、
徳川家光が亡くなったのが
慶安4年(1651年)4月20日 (旧暦)であったため、 1月20日を忌日として避け、
後に松の内後の1月11日 (旧暦)とされた。

グレゴリオ暦(新暦)になった現在、
松の内が1月15日の地方では、
16日以降に鏡開きが行われ、
通常1月20日(二十日正月)に行われる。

京都府や近隣の一部では、
1月4日に行うが、
その理由は明確とはなっていないと言われている。

西日本では、
陰暦の2月15日に行われる涅槃会に合わせて、
鏡餅を割ってあられを作って食べ、
一年間の無病息災を願う風習もある。

釈迦の鼻くそに形が似ていることから、
花供曽(はなくそ)などの名前で参詣者に配られている。

近年では
パックの鏡餅から
お餅を取り出すだけになりましたね😅

鏡開き

2022/01/11

お好み焼きの派生

1月11日
火曜日
鏡開き

3年前の
コナモンの日に
私がお好み焼きについて調べた投稿が
見つかったので上げときます。


お好み焼きの派生

コナモンの日と言う事で
お好み焼きの派生について
概ね明らかになっている事を
少し調べてみました。

記録では
日本における粉物料理の起源は、
安土桃山時代の千利休が好んだという
「麩の焼き」にあるといわれているが
お好み焼きとはかけ離れたものであり、
お好み焼きの起源としては異論もある。

現在のお好み焼きに近いものとして、
関東地方においては、
明治に東京で定着したもんじゃ焼きが発生し、
そこから
昭和の初めに
東京を中心に流行した「どんどん焼き」が派生し、
屋台や縁日などで販売された。

近畿地方においては、
ソースが洋食的で一銭で買えることから
一銭洋食と呼ばれる水に溶いた小麦粉を
薄く焼いたものが発生した。

どんどん焼きが
一銭洋食になったと根拠なく断定する情報もあり、
またそれを鵜呑みに引用する情報もあるが、
逆のケースも十分に考えられ、
起源に関しては不明である。

こうした古いスタイルのお好み焼きの原型は、
現在も祭りの屋台などで提供されている他、
岸和田市のかしみん焼きや
高砂市のにくてん、
あるいは「ねぎ焼き」
「キャベツ焼き」といった形で残存している。

大正7年(1918年)3月24日の読売新聞朝刊に
「蝦フライ一銭のどんどん焼」と
題する記事が掲載されており、
記事内では「どんどん焼き」
という表現を用いながらも、
その屋台の暖簾や品書きには
「お好み焼」という表現が使用されている。

また柳田国男は、
昭和6年(1931年)に刊行された
「明治大正史 第四巻 世相篇」において
「子供を相手の擔ひ商ひの方でも
飴や新粉の細工物は通りこして、
御好み焼などといふ一品料理の眞似事が、
現に東京だけでも
数十人の専門家を生活させて居る」と書いている。

池田弥三郎の「私の食物誌」には
「昭和6〜7年(1931〜1932年)ごろに
銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、
風俗上の取り締まりで挙げられた」
というエピソードが記録されており、
当時のお好み焼き屋は
飲食を口実として
懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、
どちらかと言えばいかがわしい業態としても
機能していたことが読み取れる。

食文化史研究家の岡田哲は、
「お好み焼き」は当時の東京の花街において、
座敷にしつらえた鉄板で
客が自分の「好み」に焼く
風流な遊戯料理として誕生したという
この証言に基づいた解釈を紹介しており、
日本コナモン協会会長の熊谷真菜も
自著にて同じ説を採用している。

田辺聖子は藤本義一との対談の中で、
大阪でお好み焼きが知られるようになったのは
昭和16〜17年ぐらいから
ではなかったかと発言している。

現存するお好み焼き屋の中で
最古とされる店は、
浅草の「風流お好み焼 染太郎」で
昭和13年(12年という説もあり)の創業であるが、
大阪でも同じ時期に
「以登屋」(現在は閉店)が開店しており、
大阪で初めて客に自由に焼かせる
「お好み焼き」を紹介したとされる。

以登屋は芸者や花柳界の粋人、
船場の旦那衆などを対象とした高級店で、
市中の洋食焼きが10銭程度であった時代に
1円50銭もしたという。

ちなみに大衆店として
人気を博した染太郎では、
創業当時のお好み焼きの価格は一枚5銭であった。

戦後、「お好み焼き」という言葉は
客が自分で焼いて楽しむという原義を離れ、
ネギではなくキャベツを用いた
粉物料理そのものを指すようになる。

キャベツを用いる
混ぜ焼き式の「お好み焼き」は
近畿地方を中心に戦後急速に浸透し、
全国各地で洋食焼き・どんどん焼きから
お好み焼きへと料理の名称と調理法が更新されていった。

焼き方に関しては
現在も戦前のスタイルを残す地域が存在するものの、
名称の点では
ほぼ全国的に「お好み焼き」に統一されている。

お好み焼きは
戦後の大阪において、
具材やソースの追加、
腰掛け式のカウンターテーブルの採用などの変化を経て、本家と言われるほどに発展していく。

なお、
広島は戦前の東京で誕生した
お座敷料理のお好み焼きはもちろん、
戦後に広まった混ぜ焼き式のお好み焼きの
影響も受けなかった地域であるが、
どんどん焼きは乗せ焼きが主流であり、
どんどん焼きから一銭洋食として伝わり、
関西のお好み焼きも
広島のお好み焼きも源流は同じである。

戦災からの復興過程で
1950年ごろに発生した屋台街(後のお好み村)において、鉄板一枚で調理出来ることから、
戦前の一銭洋食をベースに独自の変化を遂げ、
後に広島風お好み焼きと呼ばれる料理に発展した。

個人的には
お店で提供される
お好み焼きの形態としては
最も古いのは
神戸の長田で
昭和8年から肉天屋を営業していたとされる
水原ではないかと思います。

神戸のにくてんが
お好み焼きと呼ばれるようになったのは戦後ですが
形態としてはお好み焼きなので
東京の染太郎の
風流お好み焼きより
古くから提供されている事になりますね

画像は
神戸のにくてんです😃

お好み焼きの派生