2023/01/26
山一抗争
1月26日
木曜日
山一抗争
1985年(昭和60年)1月26日
大阪府吹田市で
一和会系組員が
竹中正久・山口組組長ら最高幹部3人を射殺
山口組・一和会の抗争が勃発。
山一抗争(やまいちこうそう)は、
1984年(昭和59年)8月5日から
1989年(平成元年)3月30日にかけて
山口組と一和会の間に起こった暴力団抗争事件。
317件の大小抗争が発生し、
一和会側に死者19人、負傷者49人、
山口組側に死者10人負傷者17人、
警察官・市民に負傷者4人を出した。
抗争の直接の逮捕者は560人に及んだ。
史上最悪の暴力団抗争ともいわれることもある。
2023/01/26
文化財防火デー
1月26日
木曜日
文化財防火デー
1949年(昭和24年)1月26日
法隆寺金堂壁画が焼損したことをきっかけに、
文化財を火災や震災から守るとともに、
文化財愛護思想の普及高揚を図る目的で、
1955年(昭和30年)に
文化財保護委員会(現文化庁)
と国家消防本部(現消防庁)が制定。
2023/01/25
三方ヶ原の戦い
1月25日
水曜日
三方ヶ原の戦い
1573年1月25日
(元亀3年12月22日)
遠江国の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市内)で
武田信玄と徳川家康の軍が戦い、
武田軍が勝利する。(三方ヶ原の戦い)
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、
遠江国敷知郡の三方ヶ原
(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった
武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。
信長包囲網に参加すべく
上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を
徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。
当初、徳川家康と佐久間信盛は、
武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、
籠城戦に備えていた。
一方の武田軍は、
二俣城攻略から3日後の
12月22日に二俣城を出発すると、
遠州平野内を西進する。
これは
浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する
堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を
標的とするような進軍であり、
武田軍は浜松城を素通りして
その先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。
これを知った家康は、
一部家臣の反対を押し切って、
籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る
武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、
織田からの援軍を加えた連合軍を率いて
浜松城から追撃に出た。
そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、
武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。
眼前にいるはずのない
敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり
両軍の戦闘が開始された。
しかし、
不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は
武田軍に撃破され、
日没までのわずか2時間ほどの会戦で
連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。
武田軍の死傷者200人に対し、
徳川軍は死傷者2000人を出した。
特に、
鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、
先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした
中根正照、青木貞治や、
家康の身代わりとなった
夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、
また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。
このように野戦に持ち込んだことを含めて、
全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、
戦闘開始時刻が遅かったことや
本多忠勝などの武将の防戦により、
家康本人を討ち取ることはできなかった。