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2022/07/31

樺太の戦い

7月31日
日曜日

樺太の戦い

1905年(明治38年)7月31日

日露戦争・樺太の戦い

日本軍が樺太全島を占領下に置く。

樺太占領後の
8月10日から開始された
日露講和会議(ポーツマス条約)の結果、
樺太を東西に横切る北緯50度線以北は
ロシアに返還されたが、
以南は正式に割譲させ日本領となった。

樺太は
我が国固有の領土です❗

少なくとも
南樺太は間違いなく
我が国の領土です❗

北方領土とか
そんなちんけなお話ではないですね❗
南樺太も
千島列島も
そっくり返して貰いましょう❗

樺太の戦い

2022/07/30

自転車屋の生き物歳時記 ムクドリ

7月30日
土曜日

自転車屋の生き物歳時記

ムクドリ

今朝は
やたらピーピーピーピーと
ムクドリがうるさく鳴いていた。

先日
ムクドリが大量発生して
セミがいなくなったと言う話を聞いたが
セミを食いに来たのか!?

ムクドリ
(椋鳥・鶁・白頭翁、学名: Sturnus cineraceus)は
スズメ目ムクドリ科の鳥類の1種。

英名は White-cheeked Starling または Grey Starling。

全長24cm ほどで、
およそスズメとハトの中間ぐらいの大きさである。

尾羽を加えるとヒヨドリより一回り小さい。

翼と胸、頸は茶褐色で、
頸から頭部にかけてと腰に白い部分が混じり、
足および嘴は黄色い。

雄は胸や腹・背が黒っぽく、雌は褐色に近い。

東アジア(中国、モンゴル、ロシア東南部
、朝鮮半島、日本)に分布する。

日本国内ではほぼ全域に分布する留鳥で、
北部のものは冬には南部に移動するようである。

低地の平野や低山地にかけて広く生息し、
都市部などの人家付近や田畑などでもよく見られる。

雑食性で、
植物の種子や果物、虫の幼虫などを好んで食べる。

地面に降りて歩いて虫などを探すこともあれば、
木の枝に留まってカキなどの
熟した実をついばむ様子も観察される。

椋の木の実を好んで食べるため
「椋鳥」と呼ばれるようになったといわれているが、
これに限らず幅広く食べている。

繁殖期は春から夏で、
番いで分散し、木の洞や人家の軒先などの穴に巣を作る。

両親ともに子育てを行い、
とくに育雛期には両親が揃って出掛け、
食糧を探して仲良さそうに歩き回る様子が観察される。

繁殖期は巣で寝るが、
ヒナが巣立つと親子ともに集まって
群れを形成するようになり、
夜は一か所に集まってねぐらを形成する。

ねぐらには 10km 以上の範囲から集まり、
冬は数万羽の大群となることもある。

かつては
河原の広葉樹や人家の竹藪に集まっていたが、
そういった環境は開発で減少したため、
都市部の街路樹などにねぐらをとる例も増えている。

鳴き声は
「ギャーギャー」「ギュルギュル」「ミチミチ」など。

かなりの音量であり、
大量にムクドリが集まった場合には、
パチンコ店内の音量と同じレベルに達する。

都市部などでも群れを成して生活する。

その為、
大量の糞による汚染被害や、
鳴き声による騒音被害が社会問題化している。

ムクドリはもともとは、
農作物に害を及ぼす虫を食べる益鳥とされていた。

平均的なムクドリの家族(親2羽、雛6羽)が
1年間に捕食する虫の数は百万匹以上と研究されている。

当時、害虫を1匹駆除するのに
1円かかるといわれていたため、
ムクドリ1家族で年間に百万円以上の利益を
国家にもたらす「農林鳥」とたたえられたほどである。

その後、
生息環境の破壊により都市に適応して大量に増殖すると、鳴き声による騒音や糞害などが、しばしば問題になる。

日本国内では
1994年からは狩猟鳥に指定されている。

農研機構では、
鳥が天敵に捕まった時に発声する声を、
鳥に忌避行動を起こさせる
「ディストレス・コール」として用い、
ムクドリやスズメを追い払う効果を試みている。

2021年には、
強力なLEDライトを当てることで
効果を出している自治体もあるが、
他の地域にムクドリが移動するだけで、
イタチごっこの状態が続いている。

自転車屋の生き物歳時記  ムクドリ

2022/07/30

姉川の戦い

7月30日
土曜日

姉川の戦い

1570年7月30日(元亀元年6月28日)

織田信長・徳川家康連合軍が
浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、
戦国時代の元亀元年6月28日
(1570年7月30日)に
近江浅井郡姉川河原
(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で
行われた合戦である。

「姉川の戦い」という呼称は
元々は徳川氏の呼び方であり、

布陣した土地名から
織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、
朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。

姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、
長政が信頼していたと言われている
重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、
浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら
浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死した。

朝倉氏では
真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。

両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。

一方、
初期戦闘で苦戦した織田方では
坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死している。

横山城は降伏、信長は木下秀吉を城主にした。

この戦いには敗れたが
この時点では浅井・朝倉連合軍には
まだ余力は残っており、

近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や
石山本願寺の一向一揆と手を結び、
湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返された(志賀の陣)。

これらの戦いでは
織田方の被害も軽微なものとはいえず、
信長の実弟織田信治をはじめ
森可成、坂井政尚などの諸将を失った。

信長は
浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、
周辺敵勢力の掃討に打って出た。

また、
軍事力だけでは攻略は困難と判断した信長は
諜略によって浅井家の内部分裂を謀った。

その代表例が
姉川の合戦で最も武功をあげた磯野員昌の離間である。

姉川の合戦により
領国が南北に分断されてしまっていたため
犬上郡の佐和山城を守備する
磯野員昌らは孤立してしまい
物資の補給すらままならない状態であった。

そこに目をつけた秀吉が
浅井家家中に員昌内通の風説を流し、
長政らに員昌に対する疑念をもたせることに成功、

長政は
再三にわたる員昌からの物資補給の要請を
すべて拒絶し、
兵糧が残り少なくなった員昌は
ついに織田方に投降し
浅井滅亡の流れを決定付けることとなった。

次第に弱体化していった
浅井・朝倉両氏は大局的な戦略に方向転換し
甲斐の武田信玄や
本願寺顕如らと組み
信長包囲網を形成していく事になる。

姉川の戦い