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2022/08/18

日本武尊(ヤマトタケル)

8月18日
木曜日

日本武尊(ヤマトタケル)

110年8月18日
(景行天皇40年7月16日)

景行天皇が日本武尊に東夷討伐を命じる。

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、
記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。

『日本書紀』では主に
「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、
『古事記』では主に
「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。

現在では、
漢字表記の場合に一般には
「日本武尊」の用字が通用される。

第12代景行天皇皇子で、
第14代仲哀天皇の父にあたる。

熊襲征討・東国征討を行ったとされる
日本古代史上の伝説的英雄である。

『古事記』では、
倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が
景行天皇の妃となって
大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、
このことから景行天皇とヤマトタケルの
親子関係に否定的な説がある。

また、
各地へ征討に出る雄略天皇などと
似た事績があることから、
4世紀から7世紀ごろの
数人のヤマトの英雄を統合した
架空の人物という説もある。

日本武尊(ヤマトタケル)

2022/08/17

清水寺建立

8月17日
水曜日

清水寺建立

798年8月17日
(延暦17年7月2日)

坂上田村麻呂が清水寺を建立。

清水寺(きよみずでら)は、
京都府京都市東山区清水にある寺院。

山号は音羽山。

本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。

もとは法相宗に属したが、
現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。

西国三十三所観音霊場の第16番札所である。

宝亀11年(780年)
鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ
坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、
修行中の賢心に出会った。

田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、
薬になる鹿の生き血を求めて
この山に来たのであるが、
延鎮より殺生の罪を説かれ、
観音に帰依して観音像を祀るために
自邸を本堂として寄進したという。

後に征夷大将軍となり、
東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、
若武者と老僧
(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、
無事に都に帰ることができた。

延暦17年(798年)
田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して
本堂を大規模に改築し、
観音像の脇侍として
地蔵菩薩と毘沙門天の像を造りともに祀ったという。

以上の縁起により、
清水寺では行叡を元祖、
延鎮を開山、
田村麻呂を本願と位置づけている。

清水寺建立

2022/08/17

隠元禅師

8月17日
水曜日

隠元禅師

1654年8月17日
(承応3年7月5日)

明の禅僧・隠元隆琦が長崎に到着。

隠元 隆琦(いんげん りゅうき)
特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、
径山首出国師、覚性円明国師、
勅賜として真空大師、華光大師、
万暦20年・文禄元年11月4日
〈1592年12月7日〉~
寛文13年4月3日
〈1673年5月19日〉)は、
明末清初の禅宗の僧。

福建省福州福清県の生まれで、
その俗姓は林である。

隠元自身は臨済正宗と称していたが、
独特の威儀を持ち、
禅とさまざまな教えを兼ね併せる
当時の「禅浄双修」の念仏禅や、
「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする
明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。

また、
道者超元と共に
当時の禅宗界に多大な影響を与え、
江戸時代における臨済・曹洞の
二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。

なお、
明代の書をはじめとして
当時の中国における文化や文物をも伝え、
隠元豆の名称に名を残し、
日本における煎茶道の開祖ともされる。

インゲン豆の語源になった
お坊さんですよ❗

隠元禅師