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2022/08/30

自転車屋の生き物歳時記 ナツアカネ

8月30日
火曜日

自転車屋の生き物歳時記

ナツアカネ

いわゆる赤トンボの一種。

私が子供の頃は
夏休みの終わり頃に
空き地等で
数十匹の群れが飛んでいるのを良く見かけた。

最近では
数匹ぐらいしか見ないですね。


ナツアカネ
(夏茜、学名 Sympetrum darwinianum )は
アカネ属のトンボの一種。

日本全国に分布する。

成虫は体長33-43mm、
腹長20-28mm、後翅長23-32mm程度で
アキアカネを若干寸詰まりにしたような体型をしている。

マユタテアカネとほぼ同大であるが、
本種の方が胸部が大きく全体的にがっしりしている。

胸部斑紋の形は
アキアカネのものと似ているが、
本種の斑紋は比較的に角を帯びている。

幼虫は典型的な赤とんぼ型のヤゴで、
体長は17mm前後。

ノシメトンボ、リスアカネに似ている。

腹部第8節の側棘の長さは
第9節の末端を大きく超える。

成虫は6月下旬頃から羽化が始まり、
12月上旬頃まで見られる。

平地から丘陵地にかけて広く分布する種で、
明るく開放的な環境を好む。

羽化後はいったん羽化水域を離れて、
付近の樹林の林縁や低山地に移動し、
体が成熟するまでそこで摂食活動を行う。

未熟期には雌雄とも体色は黄褐色をしているが、
成熟した雄は全身が赤化し、
雌も腹部背面が赤化する個体が多い。

アキアカネほど顕著ではないが、
よく集団で移動し、
他種と混ざって観察されることも多い。

小規模な移動を幾度も繰り返す習性があり、
群れが去った後は一頭も見つからないこともある。

成熟した雄は
水域近くに縄張りを持つようになるが、
本種は明確な縄張りの範囲を持たず、
すぐに場所を変える。

産卵は空中から卵を振り落とす打空産卵で、
水のない池畔の草原や水田の稲穂の上などで
雌雄が連結して行うことが多いが、
途中で連結を解いて雌の単独産卵に移行することもある。

この場合は雄が上空でホバリングをしながら、
または付近に静止して
雌の産卵を警護をすることもあるが、
長時間は持続しない。

体格や体色は異なるものの、
国内の種ではマダラナニワトンボと近縁。

異種間連結・異種間交尾・産卵が
観察されることがあり、
稀に種間雑種を生じる。

なお、
姿形が非常によく似ている
アキアカネとは産卵の方式も異なっており、
同属内であっても系統的には
それほど近縁な種類ではない。

自転車屋の生き物歳時記  ナツアカネ

2022/08/30

武家諸法度

8月30日
火曜日

武家諸法度

1615年8月30日
(元和元年7月7日)

江戸幕府が武家諸法度を発布。

武家諸法度(ぶけしょはっと)は
江戸時代に江戸幕府が
武家を統制するために定めた法令である。

武家諸法度とは
江戸幕府が慶長16年(1611年)に
武家から誓紙を取り付けた3ヶ条に、
以心崇伝が起草した10ヶ条を付け加えたもので、慶長20年(1615年)7月に
2代将軍の徳川秀忠が伏見城で武家に発布した
(通称「元和令」)。

法度は
大名、徳川家家臣など武家を対象として、
当初は13ヶ条であったが、
将軍の交代とともに改訂され、
3代将軍の徳川家光が
参勤交代の制度や大船建造の禁などの条文を加え、19ヶ条の定型となる(「寛永令」)。

5代将軍の徳川綱吉は
諸士法度と統合して「天和令」を制定。

8代将軍徳川吉宗が
6代将軍徳川家宣の定めた
(実際には新井白石が改訂し、
7代将軍家継が短命だった事もあり
そのまま用いられ続けた)
「正徳令」を破棄して、
「天和令」を永く伝えていく事を宣言し、
以後武家諸法度の改訂は行われなくなった。

本法度は、
将軍直令による
制定・面令による幕府法で最重要視されており、
武家のための命令・禁止の規範が大半をしめる。

徳川による
諸大名が力を付けない為の
締め付けですな‼️

武家諸法度

2022/08/29

筑後川の戦い

8月29日
月曜日

筑後川の戦い

1359年(延文4年/正平14年)8月29日

筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は
南北朝時代の
延文4年/正平14年8月6日
(1359年8月28日)
筑後川をはさんで南北朝が戦った戦。

大保原の戦い
大原合戦とも。
日本三大合戦の一つ。

延文4年/正平14年7月
懐良親王、菊池武光、赤星武貫、
宇都宮貞久、草野永幸、
大野光隆、西牟田讃岐守ら
南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り
大宰府を本拠とする
北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、
大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し
両軍合わせて約10万の大軍が戦った。

戦いの苛烈さについては
頼山陽も詩に歌っている。

この戦いで
足利側の少弐直資は戦死、
南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、
両軍合わせて4800余人が
討死にしたといわれる。

この戦いに敗れた
足利軍は大宰府に逃れ、
九州はこの後、
幕府が今川貞世を九州探題として
派遣するまでの
13年ほどは南朝の支配下に入ることとなった。

日本三大合戦の一つだが
関ヶ原の戦い
川中島の戦いに比べると知られていない。

10万の大群の激突は
関ヶ原の戦いの
15万に次ぐ大規模なんですけどね~

筑後川の戦い