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2023/04/12

自転車屋の生き物歳時記 植物編 ツルニチニチソウ

4月12日
水曜日

自転車屋の生き物歳時記
植物編

ツルニチニチソウ

先日の摩耶山下山トレッキングにて
数ヶ所で
この花が咲いているのを見かけましたね。

山の方に行くと
まだまだ
野花が咲いているのは少ないので
紫の花が良く目につきました。

ツルニチニチソウ
(蔓日々草、学名:Vinca major)は
キョウチクトウ科の常緑蔓性植物の一種。

ツルギキョウともいうが、
キキョウ科にツルギキョウ(学名:Campanumoea maximowiczii)という植物があり、
キキョウ科のものが標準和名のツルギキョウである。

ヨーロッパ原産で観賞用に栽培される。

北アメリカ、南アメリカ、オーストラリア、
日本に帰化している。

Vinca属は蔓性の多年草あるいは亜低木に分類され、
日本ではツルニチニチソウ(Vinca major)と
さらに小型のヒメツルニチニチソウ(V. minor)の
2種が一般的に知られる。

茎が地面や石垣などを這い、
節から根を出し広がって増える。

この性質のため、
吊り鉢から茎を垂らしたり、
グランドカバーなどに利用される。

特に斑の入る品種が園芸品種として好まれる。

斑には、白と黄色があり、
斑の模様も多様であるが、
斑入り品種は花付きがよくない傾向がある。

耐寒性、耐陰性、耐乾性に優れ周年の鑑賞に耐える。

花期は、春~初夏。

花の形がニチニチソウに似ているが、
色は青紫色または白色。

柱頭は円盤状をしており、
その上に毛のある突起物があるが、
このような柱頭の植物は珍しい。

葉は幅広い。ニチニチソウ同様に繁殖力が非常に強く、
観賞用によく栽培される。

ビンカアルカロイドとは異なるアルカロイドを含む。

自転車屋の生き物歳時記  植物編  ツルニチニチソウ

2023/04/12

自転車屋の生き物歳時記 植物編 コバノミツバツツジ

4月12日
水曜日

自転車屋の生き物歳時記
植物編

コバノミツバツツジ

先日の摩耶山下山トレッキングにて
コバノミツバツツジが咲いているのを
何ヵ所も見つけました。

まだ
5分咲き程度と言った赴きで
満開ではなかったですね。

コバノミツバツツジ
(小葉の三葉躑躅、学名: Rhododendron reticulatum)は、ツツジ科ツツジ属の落葉低木。

葉が3枚展開するミツバツツジ類の一種で、
関東地方南部から中部地方南部に分布する
ミツバツツジに比べて、
葉が多少小さいためこの名となった。

樹高は3m程度になる。

3 - 4月頃に
紅紫色 - 淡紫色の花が多数咲き、里山の春を彩る。

花は直径約3-4㎝。

花粉が細い糸でつながった構造をしており、
昆虫の体に付着しやすくなっている。

また、
1本のめしべの回りを取り囲むように10本のおしべがある。

花芽からおおむね1つの花が咲く。

刈り込んだ後の萌芽力が強くて、
日当たりが良い場所では花付きが良い。

学名は網目を示し、葉の裏の網目が目立つ。

果実は、
縦割れができる1cmほどの蒴果で、
その中に1mm程度の種が200ほどできる。

日本のミツバツツジ類の中で最初に学名がつけられた。

東は神奈川県西部。

北は岐阜県の飛騨地方や福井県から、
鹿児島県までで、
日本のミツバツツジ類の中で最も幅広く分布する。

特に愛知県以西の乾燥した
アカマツ・コナラ林などではかなり普通に見られる。

自転車屋の生き物歳時記  植物編  コバノミツバツツジ

2023/04/12

任那の復興要請

4月12日
水曜日

任那の復興要請

601年4月12日
(推古天皇9年3月5日)

推古天皇が
高句麗・百済に使いを送り
任那の復興を要請。

任那(みまな/にんな、임나、?-562年)は、
古代に存在した
朝鮮半島南部の地域を指す歴史地理的地名。

主として
『日本書紀』に代表される
日本の史料において用いられる他、
広開土王碑文等に用例がある。

一般的に伽耶と同一、
または重複する地域を指す用語として用いられる。

1983年に
慶尚南道の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が
前方後円墳であると
嶺南大学の姜仁求教授が実測図を発表したが、

後の調査により、松鶴洞1号墳は、
築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので
前方後円墳ではないとする見解を
韓国の研究者が提唱したが、

松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、
改竄工事を行った疑惑が持たれている。

これに関して
1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、
2012年撮影写真では3つになっているという指摘がある。

朝鮮半島南西部では
前方後円墳の発見が相次ぎ
これまでのところ全羅南道に11基、
全羅北道に2基の前方後円墳があることが
確認されている。

また朝鮮半島の前方後円墳は、
いずれも5世紀後半から6世紀中葉という
極めて限られた時期に成立したもので、
百済が南遷して併呑を進める以前に存在した
任那地域の西部や半島の南端部に存在し、

円筒埴輪や南島産貝製品、
内部をベンガラで塗った石室といった
倭系遺物を伴うことが知られている。

ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、
新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土
(高句麗の旧領では稀)している
ヒスイ製勾玉などがある。

戦前の日本の考古学者は
これをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする
新解釈が提唱されたこともあった。

しかし、
朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、
古代においては東アジア全体でも
日本の糸魚川周辺以外に
ヒスイ工房が発見されないことに加えて、

最新の化学組成の検査により
朝鮮半島出土の勾玉が
糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、
日本からの輸出品であることがわかった。

そのため、
任那や加羅地域とその西隣の地域において
支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、
ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。

ただしそれらは、
ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、
ヤマト王権から派遣された
官吏や軍人ではないという意見が有力である
(詳しくは任那日本府)。

ともあれ少なくとも
軍事や外交を主とする倭国の機関があり、
倭国は任那地域に権限と権益
(おそらく製鉄の重要な産地があった)を
有していたであろう。

任那の復興要請