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2023/05/31

兵庫県庁2号館 ドリームカフェ

5月31日
水曜日

兵庫県庁2号館1階
ドリームカフェ

パスタセット

ナポリタン
パン
コーンクリームスープ
アイスコーヒー

県庁の人に
食堂ってないんですか?と聞くと
食堂は無くなりました。

2号館に喫茶・軽食ならありますと
教えて貰いました。

兵庫県庁2号館  ドリームカフェ

2023/05/30

風土記(ふどき)

5月30日
火曜日

風土記(ふどき)

713年5月30日
(和銅6年5月2日)

元明天皇が諸国に風土記の編纂を命じる。

風土記(ふどき)とは、
一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、

狭義には、
日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を
国ごとに記録編纂して、
天皇に献上させた報告書をさす。

正式名称ではなく、
ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。

律令制度の各国別で記されたと考えられ、
幾つかが写本として残されている。

奈良時代初期の官撰の地誌。

元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、
主に漢文体で書かれた。

律令制度を整備し、
全国を統一した朝廷は、
各国の事情を知る必要があったため、
風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。

『続日本紀』の
和銅6年5月甲子
(ユリウス暦713年5月30日)の条が
風土記編纂の官命であると見られている。

ただし、
この時点では風土記という名称は用いられておらず、

律令制において
下級の官司から上級の官司宛に提出される
正式な公文書を意味する
「解」(げ)と呼ばれていたようである。

なお、
記すべき内容として下記の五つが挙げられている。

郡郷の名(好字を用いて)
産物
土地の肥沃の状態
地名の起源
伝えられている旧聞異事

写本として5つが現存し、
『出雲国風土記』がほぼ完本、
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、
『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が
一部欠損して残る。

その他の国の風土記も
存在したと考えられているが、
現在は後世の書物に逸文として
引用された一部が残るのみである。

ただし逸文とされるものの中にも
本当に奈良時代の風土記の記述であるか
疑問が持たれているものも存在する。

風土記(ふどき)

2023/05/29

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 大岡弥四郎(謀反人)

5月29日
月曜日

「どうする家康」徳川家康家臣団

大岡弥四郎(謀反人)

大岡弥四郎
(毎熊克哉)

大岡弥四郎事件が勃発したのは、
天正3年(1575)のことであるが、
事件を詳しく伝えるのは
『三河物語』などの二次史料だけである。

それは大岡弥四郎自身の事蹟についても同じである。

 大岡弥四郎は
中間(ちゅうげん:下層の侍)だったと言われ、
徳川家康の馬丁(馬を引く職務)として仕えたという。

いつの頃からか、
弥四郎は行政手腕を評価され、
松平信康のもとで岡崎城下の町奉行として
重用されることになった。

ことの発端は天正2年(1574)、
弥四郎が松平新右衛門らと結託し、
武田勝頼に内通しようとしたことである。

当時、
徳川氏は武田氏と敵対していたが、
弥四郎は勝頼の三河侵攻を手助けしようとしたのだ。

背景には、
弥四郎の発言権が増していたからとの指摘がある。

その計画とは、
弥四郎が家康が岡崎城を来訪したと
虚偽の情報を流して開門させ、
侵攻してきた武田軍を城内に導くことだった。

そして、
城主の信康を自害に追い込み、
城内の家臣らを武田氏に服属させる。

そのうえで、
家康やその家臣を討ち取るというものだった。

鳥居氏の家臣・山田重英は、
弥四郎の誘いに乗ろうとしたが、
考え直して信康に事の次第を通報した。

また、
家康は弥四郎の謀反を察知しており、
あらかじめ調査を行っていたと伝わっている。

計画は、バレバレだったようだ。

弥四郎の謀反は、
武田氏の歩き巫女によって広く伝わっており、
築山殿の耳にも入っていた。

築山殿は信康を取り立てることを条件として、
武田氏に与同しようとした。

それにしても、
情報が筒抜けならば、あまりに稚拙な計画である。

結局、
計画は事前に察知されていたので、
ただちに弥四郎は捕縛された。

弥四郎は岡崎城下と浜松城下を引き回しにされた上、
鋸挽きという残酷な刑に処せられたのである。

弥四郎の妻子は磔刑に処せられた。

天正7年(1579)、
武田氏に通じたとされる信康と築山殿は、
家康によって葬り去られた。

大岡弥四郎事件は、
その伏線だったと言われているが、
必ずしも事件の概要を示す史料の内容が一致せず、
謎が多い事件である。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  大岡弥四郎(謀反人)