2023/06/07
安土城
6月7日
水曜日
安土城
1576年6月7日
(天正4年5月11日)
安土城天守閣が完成。
安土城(あづちじょう)は
琵琶湖東岸の安土山
(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。
城址は国の特別史跡で
琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。
1582年(天正10年)
家臣明智光秀による
信長への謀反(本能寺の変)の後
まもなくして
何らかの原因によって焼失し
その後廃城となり
現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが
当時実際に城を観覧した
宣教師ルイス・フロイス
などが残した記録によって
焼失前の様子をうかがい知ることができる。
日本の城の歴史という観点からは
安土城は六角氏の観音寺城を見本に
総石垣で普請された城郭であり
初めて石垣に天守の上がる城となった
ここで培われた築城技術が
安土桃山時代から
江戸時代初期にかけて
相次いで日本国中に築城された
近世城郭の範となった。
そして普請を手がけたとの由緒を持つ
石垣職人集団「穴太衆」は
その後
全国的に城の石垣普請に携わり
石垣を使った城は全国に広がっていった
という点でも重要である。
2023/06/06
かわいいコックさんの日
6月6日
火曜日
芒種
かわいいコックさんの日
6月6日に
雨ザーザー降って来て
あっと言う間に
かわいいコックさん
2023/06/06
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 奥平信昌
6月6日
火曜日
芒種
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
奥平信昌
(白州 迅)
元亀4年(1573年)ごろ、
家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するため
有力な武士団・奥平氏を味方に引き入れることを考え、
奥平氏に使者を送ったが、
奥平貞能の返答は「御厚意に感謝します」
という程度のものだった。
そこで家康は織田信長に相談。
信長は
「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるべし」
との意見を伝えてきたので、
家康はその意見を入れ、
貞能に亀姫と貞昌の婚約と領地加増、
貞能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に
入嫁させることをを提示した。
6月22日、
貞能は家康に武田信玄の死が確実なことと
貞能・貞昌親子が
徳川帰参の意向を持っていることを伝えた。
その後、
亀姫との婚約を提案された貞昌は、
武田家に人質として送っていた妻おふうと離縁。
しばらくして徳川氏の家臣となった。
天正元年(1573年)9月21日、
武田勝頼は、貞能・貞昌親子の徳川帰参を受け、
貞昌の妻おふう(16歳)・貞昌の弟仙千代(13歳)など
奥平氏の人質3人を処刑した。
天正3年(1575年)、
武田氏に備え新城城を築城した。
奥平氏の離反に武田勝頼は、
天正3年(1575年)5月に1万5,000の軍を率いて
長篠城へ押し寄せた。
貞昌は長篠城に籠城し、
家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させて、
酒井忠次率いる
織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って
救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきった。
その結果、
同月21日の長篠の戦いにおいて
織田・徳川連合軍は武田軍を破り、
勝利をおさめることができた。
この時の戦いぶりを信長から賞賛され、
信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。
信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、
信昌の他に長宗我部信親や松平信康などがいるものの、
これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの
一字贈与であると考えられている。
ただし、
近年になって、
武田信玄こと晴信の偏諱「信」を与えられて
信昌と称したものの、
後世の奥平氏がこの事情を憚って
信長からの偏諱の話を創作したとする説も出されている。
家康もまた、
名刀大般若長光を授けて信昌を賞賛した。
家康はそれだけに留まらず、
信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して
一人一人に労いの言葉をかけた上に、
彼らの知行地に関する約束事など
子々孫々に至るまでその待遇を保障するという
特異な御墨付きまで与えた。
戦後、父・貞能から正式に家督を譲られた。
天正10年(1582年)の天正壬午の乱では
酒井忠次と共に武田家遺領へ侵攻。
天正13年(1585年)、
徳川氏の宿老・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔し、
数正によって秀吉に自家の軍事機密が
流出したことに対抗するため、
家康は急遽三河以来の軍制を武田信玄の軍制に改めた。
かつて武田家に臣従していた信昌は、
この軍制改革に貢献したという。
天正18年(1590年)7月、
関東へ国替えとなった家康と共に関東に移転した。
同年8月23日、
上野国甘楽郡宮崎3万石に入封する。
慶長5年(1600年)、
関ヶ原の戦いでは本戦に参加
(一方で家史・中津藩史では、
秀忠軍に属していたと記載あり)。
戦後は京都の治安維持のため、
京都所司代を翌年まで務める。
この時、
京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛した。
恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、
信昌が家康に献じたものだが、
改めて信昌に下されている。
一方で太秦に潜伏していた
宇喜多秀家には逃げられている。
慶長6年(1601年)3月には、
関ヶ原の戦いに関する一連の功として、
上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封される。
慶長7年(1602年)、
加納で隠居し、三男・奥平忠政に藩主の座を譲った。
慶長19年(1614年)には、
忠政と下野国宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれるが
高齢を案じられてか、
息子たちに代わる大坂の陣への参陣を免除された。
そこで、唯一参戦した
末男・松平忠明の下へ美濃加納の戦力だけは
派兵している。
翌年3月に死去した。
信昌の長篠籠城を偲んで、
大分県中津市の奥平神社では
毎年5月に例大祭「たにし祭」が開催されている。