2023/06/06
芒種(ぼうしゅ)
6月6日
火曜日
芒種(ぼうしゅ)
二十四節気の一つ。
芒(のぎ 、イネ科植物の果実を包む穎(えい)
すなわち稲でいう籾殻にあるとげのような突起)
を持った植物の種をまくころ。
『暦便覧』には
「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」
と記されている。
実際には、現在の種まきはこれよりも早い。
西日本では梅雨入りのころ。
沖縄県では
小満から芒種が梅雨の時期に当たり、
梅雨のことを沖縄方言で
「小満芒種(すーまんぼーすー)」と言う。
2023/06/06
梅の日
6月6日
火曜日
梅の日
和歌山県田辺市の紀州田辺うめ振興協議会
(紀州梅の会)が制定。
天文14年4月17日
(新暦1545年6月6日)
京都・賀茂神社の例祭・葵祭で
後奈良天皇が神事をした際に
梅が献上されたという故事にちなむ。
梅の日は
由緒正しい訳ですね!
2023/06/05
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 鳥居強右衛門
6月5日
月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
鳥居強右衛門
(岡崎体育)
(とりいすねえもん)
(徳川家康傘下 奥平家家臣)
奥平家の当主であった
奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、
三河国の東端に位置する
長篠城を徳川家康から託され、
約500の城兵で守備していたが、
天正3年5月、
長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。
5月8日の開戦に始まり、
11、12、13日にも攻撃を受けながらも、
周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。
しかし、
13日に武田軍から放たれた火矢によって、
城の北側に在った兵糧庫を焼失。
食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、
このままではあと数日で落城という
絶体絶命の状況に追い詰められた。
そのため、
貞昌は最後の手段として、
家康のいる岡崎城へ使者を送り、
援軍を要請しようと決断した
(一方、岡崎城の家康も
すでに武田軍の動きを察知しており、
長篠での決戦に備えて
同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。
しかし、
武田の大軍に取り囲まれている状況の下、
城を抜け出して岡崎城まで赴き、
援軍を要請することは不可能に近いと思われた。
この命がけの困難な役目を自ら志願したのが
強右衛門であった。
14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。
川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、
無事に包囲網を突破した。
翌15日の朝、
長篠城からも見渡せる雁峰山から狼煙を上げ、
脱出の成功を連絡。
当日の午後に岡崎城にたどり着いて、
援軍の派遣を要請した。
この時、上記の様に
信長の援軍3万が岡崎城に到着しており、
織田・徳川連合軍3万8,000は
翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。
これを知って喜んだ強右衛門は、
この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、
すぐに長篠城へ向かって引き返した。
16日の早朝、
往路と同じ山で烽火を掲げた後、
さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。
ところが、
城の近くの有海村(城の西岸の村)で、
武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。
烽火が上がるたびに
城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、
警戒を強めていたのである。
強右衛門への取り調べによって、
織田・徳川の援軍が
長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、
援軍が到着してしまう前に
一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。
そこで勝頼は、
命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか
武田家の家臣として厚遇することを条件に、
援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべきと
虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した。
こうすれば城兵の士気は急落して、
城はすぐにでも自落すると考えたのである。
強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、
長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた。
しかし、
最初から死を覚悟していた強右衛門は、
あと二、三日で援軍が来るから
それまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。
これを聞いた勝頼は怒り、
その場で部下に命じて強右衛門を殺した。
しかし、
この強右衛門の決死の報告のおかげで
「援軍近し」の情報を得ることができた
貞昌と長篠城の城兵たちは、
強右衛門の死を無駄にしてはならないと
大いに士気を奮い立たせ、
援軍が到着するまでの二日間、
武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した。
援軍の総大将であった信長も、
長篠城の味方全員を救うために
自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、
強右衛門の忠義心に報いるために
立派な墓を建立させたと伝えられている。