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2023/06/16

和菓子の日

6月16日
金曜日

和菓子の日

全国和菓子協会が
1979年(昭和54年)に制定。

848年(嘉祥元年)
疫病退散を祈念するため
元号を「嘉祥」と改元し

6月16日に
16の数にちなんだ菓子・餅を
神前に供えたという
「嘉祥菓子」の故事に由来。

由緒ある記念日やし
疫病退散で
元号を変えて菓子を供えたんやな!

これから
水羊羹や水まんじゅうなどの
冷菓の美味しい季節ですね!

和菓子の日

2023/06/15

自転車屋の生き物歳時記 カマドウマ

6月15日
木曜日

自転車屋の生き物歳時記

カマドウマ
(マダラカマドウマ)

先日の夜
ウチのお店にカマドウマがいるのを見かけた。

コイツは暗くて湿ったところにいて
便所コオロギなどと呼ばれ
嫌いな人が多いと思うけど
ゴキブリを食ってくれる奴なので
人間にとっては
どちらかと言うと益虫で私は好きです!

カマドウマ(竈馬)は
バッタ目カマドウマ科 (Rhaphidophoridae) に属す
昆虫の総称。

狭義にはその一種。

姿や体色、飛び跳ねるさまが馬を連想させ、
古い日本家屋では
竈の周辺などによく見られたことからこの名前が付いた。

脚が長く、背が曲がり、触角が長い種が多い。

キリギリスやコオロギ、ウマオイに似るが、
成虫でも翅をもたず専ら長い後脚で跳躍する。

その跳躍力は非常に強く、
飼育器の壁などに自ら激突死してしまうほどである。

顔は前から見ると下方に細まった卵型で、
口付近には1対の長い小顎鬚(こあごひげ)がある。

体長の3倍以上ある触角で、
暗所でも体の周囲全体を探れる。

3対ある脚のうち後脚は
特別に発達して跳躍に適した形になっており、
多くの種で腿節は体長とほぼ同じ長さがあり、
脛節は体長よりも長い。

カマドウマ科は世界に1100種以上が存在する。

日本には
南日本から南西諸島にかけて特に多くの種がいるが、
近年新種が発見されており、
まだまだ未知の種が多いようである。

カマドウマ科の昆虫は互いに似たものが多く、
日本産のカマドウマ科だけでも3亜科70種以上が知られ、
専門家以外には正確な同定は難しい。

単なる絵合わせによって
正しく同定をすることは不可能で、
脚の棘や交尾器の形態などの詳細で
正確な観察に基づいて同定しなければならず、
それほど簡単ではない。

特に幼虫の場合は専門家でない限り
正確な同定はほぼ不可能と考えてよい。

家屋や納屋などに見られるカマドウマ科のうち、
胴体や脚に濃淡の斑紋が明らかなもの多くは
クラズミウマかマダラカマドウマである。

また一つの地域に生息する種は限られるので、
産地や環境から
ある程度の種に絞り込むことも可能である。

主に身を隠せる閉所や狭所、暗所、
あるいは湿度の高い場所などを好むため、
木のウロ、根の間、洞穴などに生息し、
しばしば人家その他の建物内にも入る。

また時には海岸の岩の割れ目に生息することもある。

マダラカマドウマは古墳の石室内にも群生し、
しばしば見学者を驚かせる。

夜行性のため日中はこれらの隠蔽的な空所にいるが、
夜間は広い場所を歩き回って餌を探す。

夜に森林内を歩けば、
この仲間がよく活動しているのを見ることができる
(特に夏季)。

また樹液にも集まるため、
カブトムシ等の採集のために設置したトラップに
大量に集まるということも珍しくない。

光には鈍感で
撮影にフラッシュを焚いても物怖じしないが、
触感には鋭敏で息を吹きかけた程度の刺激でも
跳び上がって逃げ出す。

極めて広範な雑食性。

野生下ではおもに小昆虫やその死骸、
腐果、樹液、落ち葉などを食べている。

飼育下ではおおよそ
人間が口にする物なら何でも食べる。

動物質、植物質、生き餌、死に餌を問わない。

野外でも共食いがしばしば発生しているという。

繁殖は不規則で、
常に卵、成虫、様々な齢の幼虫が同時期に見られる。

天敵はヤモリ、トカゲモドキ(南西諸島のみ)、
ネズミ、カエル、各種鳥類、寄生蜂、
ゲジ、カマキリ、アシダカグモ等である。

竈馬は古くから存在を知られた昆虫であり、
古名である「いとど」は秋の季語とされる。

カマドウマが周辺の森林などから侵入し、
多くの日陰や空隙と共に餌も得られやすい
土間の隅などに住み着くことも多かった。

俗称として
「便所コオロギ」「オカマコオロギ」、
長野県や群馬県の一部では「シケムシ」と呼ぶ。

屋内に出没する虫としては
大型であることや跳躍力の高さなどから
不快害虫とみられることもある。

自転車屋の生き物歳時記  カマドウマ

2023/06/15

衣川の戦い

6月15日
木曜日

衣川の戦い

1189年6月15日
(文治5年閏4月30日)

源義経追捕の宣旨により
藤原泰衡が衣川館を襲う。

源義経は自害。

衣川の戦い(ころもがわのたたかい)は、
陸奥国衣川館で藤原泰衡が
源義経主従を自害させた戦い。

奥州藤原氏三代・藤原秀衡は
関東以西を制覇した源頼朝の勢力が
奥州に及ぶことを警戒し、

義経を将軍に立てて
鎌倉に対抗しようとしたが、
文治3年(1187年)10月29日に病没した。

頼朝は秀衡の死を受けて
後を継いだ藤原泰衡に、
義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。

一方、
義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、
鎌倉方と合戦をしている。

また文治5年(1189年)1月には
義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った
比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。

しかし
泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、
「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、

閏4月30日、500騎の兵をもって
義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。

義経方は、
主従の武蔵坊弁慶、鈴木重家、亀井重清らが
わずか10数騎で防戦したが、
ことごとく戦死・自害した。

館を平泉の兵に囲まれた義経は、
一切戦うことをせず持仏堂に篭り、
まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、
自害して果てた。

享年31であった。

この時の逸話で有名なのは
武蔵坊弁慶が立ったまま亡くなったと言う

弁慶の立ち往生ですね。

衣川の戦い