2023/06/23
自転車屋の生き物歳時記 植物編 ミョウガ
6月23日
金曜日
自転車屋の生き物歳時記
植物編
ミョウガ
私はミョウガが大好きなので
数年前から
プランターで栽培しています。
去年は40個ぐらい収穫出来ました。
今年も葉っぱは良く繁って来たので
食べられる部分(蕾)も
もうすぐ収穫出来るかな?
ミョウガが
食べる為に栽培されているのは
日本だけなんですね!
ミョウガ(茗荷、蘘荷、学名: Zingiber mioga)は
ショウガ科ショウガ属の宿根性の多年草。
ミョウガの英名に
Japanese Gingerがあり
食用で栽培されているのは日本だけとされる。
和名「ミョウガ」の名の由来は、
大陸からショウガとともに持ち込まれた際、
香りの強い方を「兄香(せのか)」、
弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだ。
これが後にショウガ・ミョウガに
転訛したとの説が有力である。
名前の由来に関しては、下記の俗説もある。
釈迦の弟子の中に、
周利槃特という、特に頭の弱い者がいた。
彼は自分の名前すら忘れてしまうため、
釈迦が「槃特」と書いた旗を作らせ、
背中に背負わせてやった。
しかし旗を背負ったことさえも忘れてしまい、
とうとう死ぬまで名前を覚えることができなかった。
周梨槃特の死後、
墓から見慣れない草が生えていた。
そこで「名」を「荷う」ことから、
この草を「茗荷」と名付けたという。
英語名は、
和名そのままに Myoga(ミヨガ)とよばれるほか、Japanese Ginger
(ジャパニーズ・ジンジャー:直訳すると
「日本のショウガ」の意味)の異名もある。
日本を含む東アジア原産といわれ、
各地に自生している。
日本以外では台湾や韓国の一部にもみられる。
日本では野菜として栽培も行われており、
食用にするのは日本だけである。
日本では
奈良県の東大寺正倉院中倉に保管されてきた
『正倉院文書』にも記述が見られるなど、
その歴史は古い。
草丈は40 - 100センチメートル (cm) くらいに成長する。
葉は茎の両側に3 - 4枚ずつ互生してつき、
長さ20 - 30 cmの細長い楕円形で先端は尖っている。
全体の姿形は、栽培されるショウガに似ている。
地上部に見える葉を伴った茎状のものは偽茎である。
花は淡黄色の一日花で、
株元の地面近くに長さ10 cmほどの
タケノコ状の蕾をつけて数個咲く。
ごく稀に夏から秋にかけて
温度が高い時に実を結ぶことがあるといわれている。
花穂および若芽の茎が食用とされ、
一般的には花穂の「花みょうが」を
単にミョウガというが、
幼茎を遮光して軟白栽培した「みょうがたけ」もある。
雌雄同株で、
花器にも雄蕊、雌蕊とも揃っている両性花が開花するが、
5倍体のため、
受精しても親と同じ数の染色体数になることは稀である。
繁殖は地下茎による栄養体繁殖が主体である。
食用で栽培されているのは日本だけとされる。
江戸時代に早稲田村、
中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、山吹町)
現在の新宿区牛込地域は茗荷の生産地で
「牛込の茗荷は勝れて大きく美味」と謳われていた。
赤みが美しく大振りで晩生(おくて)のみょうがである。
東京小石川、小日向に茗荷谷という地名があるが、
これは江戸時代に牛込早稲田から小石川まで広がる
茗荷畑を見下ろす谷であったことに由来する。
蕾の発生時期によって
早生の夏みょうがと中生または晩生の秋みょうががある。
産地ごとの土着の在来種がほとんどである。
ミョウガの花穂(花みょうが)は、
高知県が最大の産地でビニールハウスによる周年栽培で2016年において収穫量4901トン (t) を産しており、
全国シェアの87パーセント (%) を占めている。
次いで、秋田県、奈良県などが続き、
露地栽培を行っている。
食用とするのは固く締まった蕾の部分(花穂)で、
爽快な香りを持っているのが特徴である。
日本の夏の食卓には欠かせない食材で、
香りと歯触りが好まれて酢漬けにしたり、
刻んで薬味や汁の実にして食べられている。
食材としての主な旬は、
夏に出回る小型の「夏みょうが」が6 - 8月、
秋に出回る大きめの「秋みょうが」が8 - 10月とされる。
花穂がふっくらとしてツヤがあり、
先端から花蕾が出ていないものが
市場価値の高い良品とされる。
花がすでに出た花つきミョウガは、
料理のあしらい(飾り)として使われる。
2023/06/22
ボールエアーチャック
6月22日
木曜日
ボールエアーチャック
令和になってから
エアーコンプレッサーでのエアー補充を
お客さんが自由に使えるように
無料サービスにしていますが
コインエアーポンプの時よりも
エアー補充に来る人が
3倍にも4倍もに増えました。
使用頻度が高くなった分
エアーホースの先に付いている
ボールエアーチャックの損傷が激しいので
新品に交換しました。
2023/06/22
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 久松俊勝
6月22日
木曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
久松俊勝(長家)
(リリー・フランキー)
久松 俊勝(ひさまつ としかつ)は、戦国時代の武将。
尾張国知多郡の坂部城
(阿久比城:愛知県阿久比町卯坂)主。
徳川家康の生母・伝通院の再婚相手として知られる。
本姓は菅原氏。
佐渡守を称した。
桶狭間の戦い後に
松平元康(広忠と伝通院の子、後の徳川家康)に与す、
永禄5年(1562年)
今川氏の重臣・鵜殿長照が守る
三河国宝飯郡西郡の上ノ郷城
(愛知県蒲郡市神ノ郷町)を攻略した。
西郡の領主となった俊勝は、
信俊に阿久比を譲り、上ノ郷城には
於大との間に生まれた次子・康元を置いた。
この時期の発給文書には「長家」の名が見え、
また佐渡守を名乗っていたことがわかる
(永禄8年(1565年)の安楽寺「宗感」宛寄進状など。
「俊勝」への改名は
これ以降と考えられるが、その時期を不明としている。
また、
松平元康は永禄6年(1563年)に「家康」と改名するが、
家康の"家"の字は継父である久松長家より
一字を得たものであったが、
後年大名に成長した家康を憚って
長家の方が「俊勝」と改名。
さらに、
家光以後に徳川将軍家にとり
「家」の通字が重要となり由来を隠したため、
その由来が分からなくなってしまったとする説もある。
後に
織田信長から武田勝頼への内通の疑いをかけられた
水野信元(家康には伯父、俊勝には義兄にあたる)が
家康を頼ってくる。
しかし、
家康は信長の命により同盟を重視して
信元と養子の元茂を岡崎城に呼び出し
切腹により自害させる。
後に事情を知って激怒した俊勝は
そのまま西郡城に隠退してしまった。
晩年には三河一向一揆で追放された
一向宗寺院の三河復帰に尽力したという。
墓所は
阿久比町大字卯坂字英比67番地の洞雲院および
蒲郡市清田町門前4番地の安楽寺。
法名は陽光院殿前佐州華林崇心大居士。