2023/07/04
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 松平信康(徳川家康の嫡男)
7月4日
火曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
松平信康
(徳川家康の嫡男)
(細田佳央太)
松平信康(まつだいら のぶやす)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
徳川家康の長男(嫡男)。
母は関口親永(瀬名義広)の娘で
今川義元の姪・築山殿。
また、
後に安祥松平家の居城の岡崎城主
(愛知県岡崎市)を務めたため、
祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った。
永禄2年(1559年)3月6日、
松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として
駿府で生まれる。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、
桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった
鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。
永禄5年(1562年)、
家康と織田信長による清洲同盟が成立する。
永禄10年(1567年)5月、
信長の娘である徳姫と結婚し、
共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。
同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、
岡崎城を譲られた。
7月に元服して
信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。
元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。
天正元年(1573年)に、
足助城攻めで初陣を飾り、その後、武節城を攻めた。
天正2年(1574年)に
信康に付属された松平親宅が何度も諫言するも
聞き入れなかったとして、
役目を返上して蟄居・出家する(『松平甚助由緒書』)。
なお、
『寛政譜』では役目返上は故ありとして
時期は天正3年、
出家を後述の信康切腹を悲嘆してとするが、
この場合も役目返上の理由は
諫言を聞き入れないためとされる。
天正3年(1575年)5月の
長篠の戦いでは17歳で、
徳川軍の一手の大将として参加した。
その後も武田氏との戦いでいくつかの軍功を挙げ、
勇猛さが注目された。
特に天正5年(1577年)8月の
遠江国横須賀の戦いで退却時に殿を務め、
武田軍に大井川を越させなかったという。
天正6年(1578年)3月には
小山城攻めに参軍し、
退却時に殿を務め、活躍している。
天正7年(1579年)8月3日、
家康が岡崎城を訪れた翌日
信康は岡崎城を出ることになり、
大浜城に移された(『家忠日記』)。
その後、
信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、
9月15日に家康の命により切腹させられた。
享年21(満20歳没)。
信康の首は舅である信長の元に送られ、
その後、若宮八幡宮に葬られた。
2023/07/04
湊川の戦い
7月4日
火曜日
湊川の戦い
1336年7月4日
(建武3年5月25日)
湊川の戦いが行われる。
湊川の戦い
(みなとがわのたたかい)は、
南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日
(1336年7月4日)に、
摂津国湊川
(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、
九州から東上して来た
足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、
これを迎え撃った後醍醐天皇方の
新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。
25日の辰刻(午前8時頃)、
海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、
新田・楠木連合軍と対峙した。
他方、
陸からも足利直義を司令官とする
陸上軍主力の大軍が西国街道を進行し、
接近しつつあった。
海からの大船団を
『太平記』は
「呉と魏が天下を争った赤壁の戦いを凌ぐ」
とさえ述べているが、
義貞も正成も足利方の大軍に対して
少しもひるむことはなかったという。
水軍を用意できなかった新田軍は、
脇屋義助を将に一族23人、総勢5千余騎を経島に、
大館氏明を将に一族16人、総勢3千人を
灯炉堂の南の浜にそれぞれ布陣させ、
陸地からの敵に備えさせた。
義貞自身は総大将であり、
諸将への軍令を出すため、
和田岬に2万5千の兵で布陣した。
一方、楠木軍は他家の軍勢を入れず、
700余騎で湊川西の宿
(湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山)に布陣し、
陸地から攻めてくる敵に備えていた。
この義貞の陣立ては、
「不思議な陣立て」であったと言われる。
義貞は南から上陸してくる
足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、
北に陣取った
楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、
東西南の三方向が
海に面している和田岬が
足利軍に完全に包囲され
退路をふさがれてしまう形になる。
義貞はあえて「背水の陣」を強いて、
配下に決死の覚悟で
合戦に挑むよう促したと推測される。
2023/07/03
ソフトクリームの日
7月3日
月曜日
ソフトクリームの日
1951年(昭和26年)7月3日
明治神宮外苑で行われた
米軍主催の
アメリカ独立記念日を祝うカーニバルで
ソフトクリームが販売され、
初めて
一般の日本人がソフトクリームを食べた。
これは
語呂合わせとかではなくて
由緒正しい記念日ですな!