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2023/07/03

自転車屋の生き物歳時記 ドウガネブイブイ

7月3日
月曜日

自転車屋の生き物歳時記

ドウガネブイブイ

昨日のあぐろの湯で
屋外の植栽に
ドウガネブイブイが止まっているのを見かけた。

ブイブイも
ぜんぜん見なくなったな。

ドウガネブイブイ
(Anomala cuprea、銅鉦蚉蚉)は、
甲虫目コガネムシ科の草食昆虫。

体長はおよそ25ミリ。

体色は全身暗銅色で、鞘翅には長い毛が生えている。

全体的な体型はコガネムシに似るが、
より大型であり、
光沢も鮮やかな緑色の体色も持たない他、
頭部が長いことで区別できる。

平地から低山地の広葉樹林帯に生息する。

関東などでは普通に見られる種で、
日本のほかに朝鮮半島や中国東北部でも見られる。

成虫は5-9月にかけて出現し、
各種広葉樹の葉を食べる他、
スギの葉を食べたとする報告もある。

ブドウやウメの葉を食害するため、
農林業害虫としても知られている。

夜行性であり、灯火にもよく飛来する。

人間などの敵に襲われると、茶色の排泄物を出す。

21世紀現在、
地球温暖化、都市圏のヒートアイランド化に伴い、
元来西日本を分布の中心とし生態的ニッチを同じくする
近縁種アオドウガネの勢力域が北上し、
関東以北の本種の生息を圧迫している。

東京都近郊では既に競合に敗れ、
個体数が逆転している。

前述のように本種は食葉性だが、
飼育下では樹液に集まるクワガタムシやカブトムシ用の
ゼリーを与えるとよく食べる。

メスは腐葉土中に産卵し、
孵化した幼虫は植物の根や腐葉土そのものを食べて成長、翌年春から初夏にかけて蛹化、羽化する

自転車屋の生き物歳時記  ドウガネブイブイ

2023/07/03

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 瀬名(築山殿)

7月3日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

瀬名(築山殿)
(有村架純)

徳川家康の正室。

築山殿の実名は不明である。

テレビドラマや小説など
現代の創作では瀬名の名があてられるが、
当時の史料はもちろん、
江戸時代前期に成立した史料にも
瀬名の名はみられない。

江戸時代中期の元文5年(1740年)成立の
『武徳編年集成』巻三に、
「関口或いは瀬名とも称す」と記載されている。

一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、
または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる。

「築山」の由来は岡崎市の地名である。

具体的な場所は
『岡崎東泉記』という史料に記載されており、
岡崎城の北東約1キロほどに位置する、
岡崎市久右衛門町であったとされる。

このことから
築山殿は同地に独立した屋敷を構え、
居住したとみることができる。

父は関口親永(氏純とも)。

母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、
もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。

夫の徳川家康よりも2歳くらい年上、
低くみても同年齢くらいと推測されている。

母は『井伊年譜』や
『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると
井伊直平の娘で、先に今川義元の側室となり、
後にその養妹として親永に嫁したという。

その場合だと井伊直盛とはいとこ、
井伊直虎は従姪に当たる。

近年では、
関口親永と今川氏との婚姻関係
そのものの存在を否定する説
(親永の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を妻にしたのを
誤認したとする)もあるが、
そもそも関口氏自体が御一家衆と呼ばれる
今川氏一門と位置づけられる家柄であった。

家康(当時は松平元信・その後松平元康に改名)が
今川氏一門である関口氏の娘婿になるということは、
今川氏一門に准じる地位が
与えられたことを意味していた。

天文8年(1539年)から天文9年(1540年)にかけて
出生した可能性が高いとされる。

弘治3年(1557年)正月15日、
今川家の人質として駿府にいた
松平元信(後の徳川家康)と結婚する。

永禄2年(1559年)に松平信康を、
同3年(1560年)に亀姫を産む。

永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いにて、
伯父の今川義元が討たれ、
元康(元信から改名。のちの家康)は
岡崎に帰還することとなった。

永禄5年(1562年)3月、
父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が
織田信長と同盟を結んだ事で
今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。

築山殿は、
石川数正が駿河に来て今川氏真を説得し、
鵜殿氏長・鵜殿氏次と築山殿母子との
人質交換をすることで、
駿府の今川館から子供たちと共に
家康の根拠地である岡崎に移った。

しかし、
岡崎城内ではなく
城外の現在の西岸寺辺りにあった寺院に居住したことや、『家忠日記』における築山殿を示す敬称が
正室を表す「御前さま」ではなく、
「信康御母さま」であることなどから、
今川との手切れにあたって離縁されたとも見られている。

永禄10年(1567年)、
息子の信康と織田信長の長女・徳姫(五徳)が
9歳同士で結婚する。

元亀元年(1570年)に
信康が嫡子として岡崎城に移された際に、
嫡子生母として岡崎城に入ることとなる。

家康は遠江浜松に移ったが、
築山殿は後継ぎの信康とともに岡崎にとどまった。

天正2年(1574年)
家康の側室長勝院が次男結城秀康を出産するが、
築山殿は家康の子供を妊娠することを認めていないため
長勝院を城内から退去させている。

正妻は、
別妻や妾として承知するかの権限を持っていた。

別妻・妾の存在とその子供の出産が、
正妻の管理下に置かれていたこと、
そこにおける正妻の
絶対的な権限の存在を認識することができる。

天正3年(1575年)、
信康の家臣大岡弥四郎らが武田勝頼に内通して
謀反を企んだことが発覚し処刑される事件が起きたが、『岡崎東泉記』『石川正西聞見集』によれば
築山殿もこの謀反計画に加担していたという。

当時、
甲斐国の口寄せ巫女が岡崎領に大勢来ており、
それにつけ込んで勝頼が巫女を懐柔して
築山殿に取り入らせ、
徳姫を勝頼の味方にすれば
築山殿を勝頼の妻とし信康を勝頼の嫡男にして
天下を譲り受けるという託宣を巫女に述べさせた。

さらに
築山殿の屋敷に出入りしていた
西慶という唐人医をこの談合に巻き込み、
弥四郎らを大将分として
勝頼から所領を与える判物が出されたとしている。

徳姫は天正4年(1576年)には登久姫を、
天正5年(1577年)には熊姫を産んだ。

しかし、
いつまでたっても息子を産まないため、
心配した築山殿は、
元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた
浅原昌時の娘および日向時昌の娘など
部屋子をしていた女性を、
信康の側室に迎えさせた。

天正7年(1579年)、
徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、
築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、
武田家との内通があったことなど、
12か条からなる訴状を信長に送り、
これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。

家康の上意により妻の処分が伝えられ、
築山殿は8月29日に
遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中区富塚)で徳川家の将来を危惧した
岡本時仲と野中重政によって自害をせまられ、
自害を拒んだ事から
独断によって首をはねられ殺害された。

検使役は石川義房が務めて
首は安土城の信長の元に届けられた。

信康は9月15日に二俣城で自害した。

遺体は
浜松市中区広沢の高松山西来禅院に葬られた。

首塚が岡崎市の祐傳寺、
後に天保年間の頃八柱神社に移された。

法名は西来院殿政岩秀貞大姉。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  瀬名(築山殿)

2023/07/02

自転車屋の生き物歳時記 植物編 ハンゲショウ

7月2日
日曜日
半夏生

自転車屋の生き物歳時記
植物編

ハンゲショウ

ハンゲショウ
(半夏生、半化粧、学名: Saururus chinensis)は、
ドクダミ科ハンゲショウ属に分類される
多年草の1種である。

カタシログサ (片白草) ともよばれる。

水辺や湿地に生え、
高さ1メートルに達し、葉は互生する。

夏に小さな花が集まった細長い総状花序をつけ、
その周囲の葉が白く変色する。

東アジアから東南アジアに分布し、
日本では本州以南から報告されている。

利尿、解毒、解熱作用がある生薬とされ、
三白草(さんぱくそう)とよばれる。

また観賞用に栽培されることもある。

学名である Saururus chinensis のうち、
属名の Saururus はラテン語で
「トカゲの尻尾」(細長い花序の形)を、
種小名の chinensis は
「中国の」を意味している。

多年生の草本であり、
特有の臭気があり、また精油を含む。

太く長い地下茎が横に這う。

そこから伸びた地上茎は
高さ30–100センチメートル (cm) になる。

葉は互生し、葉身は卵形から披針状卵形、
5–15 × 2–10 cm、先端は尖り、
基部は心形、葉脈は掌状で5–7脈、
葉柄は長さ 1–5 cm、幅広で背面に稜がある。

托葉は膜質で一部葉柄に合着している。

花期は6–8月。

香りがある小さな花が多数集まり
長さ 10–15 cm の総状花序を形成し、
頂生または葉と対生状につく。

花序は初めは下垂しているが、
後に次第に上を向く。

花期になると花序に近い
数枚の葉が白くなり送粉者への広告塔となるが、
花期が終わると再び緑色になる。

蜜腺を欠くが、
花粉を餌とする虫媒花であると考えられ、
ハナアブが訪化することが報告されている。

「ハンゲショウ」の名の由来は、
七十二候の1つである「半夏生」
(太陽の黄経が100°になる日であり、
毎年7月2日頃)の頃に白い葉をつけるためとする説と、
葉の一部を残して白く変化する様子から
「半化粧」とする説がある。

季節名としての「半夏生」は、
この頃に半夏(カラスビシャク)が
生えることに由来するとされる。

また葉の片面(表面)だけが白くなることから、
カタシログサ(片白草)ともよばれる。

自転車屋の生き物歳時記  植物編  ハンゲショウ