2023/07/07
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 亀姫(奥平昌信の正室)
7月7日
金曜日
七夕
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
亀姫
(徳川家康の長女)
(奥平昌信の正室)
(當間あみ)
亀姫(かめひめ、永禄3年6月4日(1560年6月27日]
~ 寛永2年5月27日(1625年7月1日))は、
徳川家康の長女。
母は築山御前(瀬名今川氏)で、松平信康は同母兄。
奥平信昌の正室。
永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。
元亀4年(1573年)ごろに
家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため
奥平氏の帰順を試みた際、
織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の
婚約が提示条件の一つとなり、
長篠の戦いをめぐる
戦功への家康からの褒美として
天正4年(1576年)7月、信昌へ嫁いだ
(「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜第一』)。
生涯、信昌に一人も側室を置かせず、
自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と
1女(大久保忠常室)を儲ける。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、
慶長6年(1601年)夫・信昌が
美濃加納10万石に封じられ、
三男・忠政共々加納に移ったことから、
加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。
やがて
忠政、宇都宮藩の嫡男・家昌、信昌と夫子らの
相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、
幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。
寛永2年(1625年)、
加納において66歳で死去した。
戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。
墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)、
法蔵寺(愛知県岡崎市)、
大善寺(愛知県新城市)にある。
4人いた妹たちには全て先立たれている。
2023/07/06
ピアノの日
7月6日
木曜日
ピアノの日
1823年7月6日(文政6年)
シーボルトが
初めて日本にピアノを持ち込んだ。
シーボルト先生は
医者でもあり
植物博士でもあり
ピアノも教えてくれたんですね!
シーボルト先生
ありがとうございます!
2023/07/06
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 五徳(松平信康の正室)
7月6日
木曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
五徳(徳姫)
(織田信長の娘)
(松平信康の正室)
(久保史緒里)
徳姫(とくひめ、1559年11月11日(永禄2年10月12日) - 1636年2月16日(寛永13年1月10日))
戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。
織田信長の長女。
名前は「おごとく」。
松平信康の正室。
嫁入りで岡崎殿と敬称された。
長女・登久姫(福子)は小笠原秀政室、
次女・熊姫(国子)は本多忠政室。
永禄2年(1559年)10月12日、
尾張国の戦国大名・織田信長の長女として誕生
(『源流綜貫』)。
生母は生駒吉乃(久菴桂昌)といわれているが、
『織田家雑録』には
織田信忠の姉となっているなど、
生母が生駒氏であることへの矛盾を示唆する史料もある。
永禄6年(1563年)3月、
信長は家康に徳姫を嫁入りさせる約束をする。
永禄10年(1567年)5月27日、
三河国の徳川家康の嫡男・松平信康に嫁ぐ。
天正4年(1576年)に登久姫、
天正5年(1577年)に熊姫を生んだ。
しかし、
いつまでも嫡男が生まれぬのを心配した
姑の築山殿が、信康に
元武田氏家臣の浅原昌時の娘や
日向時昌の娘など、
部屋子をしていた女性を信康の側室に迎えさせたため、
この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれている。
また、
信康とも不仲になったともいわれており、
これを示す史料として、
松平家忠の『家忠日記』の中に、
家康が信康・徳姫の不仲を仲裁するために
岡崎へやって来た、と記されている。
その頃、
信長も岡崎に来たことも記されており、
信長も娘夫婦の仲を
心配してやって来た可能性も推測できる。
一時的にせよ
夫婦仲がこじれたことがあったことは
事実であるといえよう。
天正7年(1579年)に徳姫は父の信長に、
築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を訴える
十二ヶ条の訴状を書き送り、
この訴状を読んだ信長は、
安土城に滞在していた家康の使者である
酒井忠次を通して信康の殺害を命じたとされる。
これにより
築山殿は8月29日に小藪村で殺害され、
信康は9月15日に二俣城で切腹した。
しかし、
この「信長の十二ヶ条」は、
後に加筆・修正された可能性があるともいわれており、
他にも信康切腹事件に関しては不可解な点が多く、
近年では
家康と信康の対立が原因とする説も出されている。
天正8年(1580年)2月17日、
岡崎に来た家康と会見している(『家忠日記』)。
同月20日、岡崎城を出立した。
松平家忠が桶狭間まで付き従った。
2人の娘達は家康の元に残していった。
徳姫は
近江八幡市あたりに居住し、
化粧料田が近江長命寺に設定された。
天正10年(1582年)に起きた
本能寺の変において父・長兄ともに死去すると、
次兄・織田信雄に保護されたが、
小牧・長久手の戦い後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた
(『顕如上人貝塚御座所日記』)。
ところが、
天正18年(1590年)に信雄が
秀吉によって改易されたため、
生駒氏の尾張国小折に移り住んだ。
これは「埴原家文書」に残された
秀吉の朱印状から秀吉による処置だったことが明らかで、その後すぐにまた京都に居住するなど、
徳姫の処遇は秀吉の支配下にあったことが推測できる。
関ヶ原の戦い後は
尾張国の清洲城主となった家康の四男、松平忠吉から
1761石の所領を与えられた。
その後は京都に隠棲した。
寛永7年(1630年)、
蜂須賀忠英と正室・繁姫
(共に小笠原秀政の孫で徳姫の曾孫)の間に
嫡子・千松丸(蜂須賀光隆)が誕生した際には、
乳母の選定について相談されている。
寛永13年(1636年)正月10日、
死去(『小笠原忠真年譜』・『源流綜貫』)。
78歳。
法名は、見星院香岩寿桂大姉(『系図纂要』)。
墓所は大徳寺総見院。