2023/08/01
水の日
8月1日
火曜日
水の日
国土庁が
1977年(昭和52年)に制定。
一年で最も水の利用が多くなるこの時期に、
国民ひとりひとりが水の有限性、
水の貴重さを理解し、
併せてダム等の水資源開発の必要性を
啓蒙するために制定されている。
他に
八朔
花火の日
麻雀の日
肺の日
パインの日
バイキングの日
歯が命の日 など
たくさんの記念日に
指定されています!
2023/08/01
八朔(はっさく)
8月1日
火曜日
八朔(はっさく)
初穂などを恩人に贈る日。
旧暦の8月1日のことであるが、
改暦以降は新暦8月1日
もしくは
月遅れの9月1日に行われるようになった。
八朔(はっさく)とは
八月朔日の略で、
旧暦の8月1日のことである。
新暦では
8月25日ごろから
9月23日ごろまでを移動する
(秋分が旧暦8月中なので、
早ければその29日前、
遅ければ秋分当日となる)。
この頃、
早稲の穂が実るので、
農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が
古くからあった。
このことから、
田の実の節句ともいう。
この「たのみ」を「頼み」にかけ、
武家や公家の間でも、
日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、
その恩を感謝する意味で
贈り物をするようになった。
祇園では
挨拶回りをやるようです。
現在は
八朔の風習は
お中元に姿を変えていますね。
2023/07/31
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 穴山梅雪(元 武田家家臣)
7月31日
月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
穴山梅雪(信君)
(元 武田家家臣)
天正9年(1581年)12月、
勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資らを憎み、
織田信長に内通し始め、
翌年2月、
勝頼が娘を信君の嫡男に娶らせる約束を反故にして
武田信豊の子に娶らせるとしたことに激怒して、
家康に降ったという話が、
飯田忠彦の『大日本野史』に見られる。
天正10年(1582年)、
織田信忠の甲斐侵攻に際しては、
2月25日に甲府にいた人質を逃亡させ、
甲斐一国の信君への拝領と武田氏の名跡継承を条件に、
2月末に徳川家康の誘いに乗り、
信長に内応した(『家忠日記』、『信長公記』、
『記録御用所本子文書』)。
その結果、
信君は織田政権より
甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された
織田氏の従属国衆となり、
徳川家康の与力として位置づけられた。
同年5月には
信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、
近江国安土(滋賀県近江八幡市安土町)において
信長に謁見する。
堺(大阪府堺市)を遊覧した
翌日の6月2日に
京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と信長の死
(本能寺の変)を知り、
家康と共に畿内を脱しようとするが、
宇治田原で郷民一揆の襲撃を受けて亡くなった。
『家忠日記』では自害、
『信長公記』では一揆により生害されたと伝えられ
殺害と自害の両方の意味がある。
一方、
『フロイス日本史』では、
信君は家康一行から遅れて移動していたところを
落ち武者狩りの執拗な襲撃に遭い殺害されたとする。
『東照宮御実紀』では、
信君が家康を疑い別行動を取ったところを、
光秀から家康追討の命を受けた一揆勢によって
家康と誤認されて、
家臣の帯金美作守らと共に
宇治田原で殺害されたとする。
このように、
自害ではなく落ち武者狩りや一揆によって
殺害されたとする資料も見受けられる。
一方、
別行動を取ったとされる家康は
かろうじて三河国に帰国した(伊賀越え)。
『甲陽随筆』では
墓所は草池(内)村木津川ノ西南段ノ岡と記されている。
法諱は霊泉寺殿古道集公大居士。