2023/08/28
民放テレビスタートの日
8月28日
月曜日
民放テレビスタートの日
1953年(昭和28年)8月28日
午前11時20分
日本初の民放テレビ局
・日本テレビが
本放送を開始したことに由来。
2023/08/28
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 石川数正
8月28日
月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
石川数正(いしかわかずまさ)
石川 数正(いしかわ かずまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名
徳川家康の片腕として
酒井忠次とともに活躍したが、
小牧・長久手の戦いの後に
出奔して豊臣秀吉に臣従した。
徳川家康が
駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から
近侍として仕えた。
永禄3年(1560年)、
義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し
松平元康(家康)が独立すると、
数正は今川氏真と交渉し、
当時今川氏の人質であった
家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻した。
永禄4年(1561年)、
家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、
先鋒を務めて活躍した。
永禄5年(1562年)、
織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。
永禄6年(1563年)、
三河一向一揆が起こると、
父・康正は家康を裏切ったとみられるが、
数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。
石川宗家の家督は
叔父の石川家成が家康の命で継いだが、
これは家成が家康の従兄にあたるためでもある。
しかし、
家康に近習していたこともあり、
戦後に家康から家老に任じられ、
酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになった。
信康が元服するとその後見人となった。
永禄12年(1569年)には、
西三河の旗頭であった叔父の家成が
遠州東部の要である掛川に転出すると、
代わって西三河の旗頭となった。
また、
軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、
天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、
多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。
天正7年(1579年)に
信康が切腹すると、岡崎城代となる。
天正10年(1582年)に織田信長が死去し、
その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、
数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。
このため
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。
この戦いにおいて
家康に秀吉との和睦を提言したとされる。
天正13年(1585年)3月までに
数正は康輝(やすてる)と改名しており、
以降短期間であるが
「康輝」名義の文書を発給している。
深志城主10万石となり、
信濃松本藩の初代藩主とみなすことが
通説となっている。
家系は
河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が
河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の
石川荘を相伝し、
義時の三男の義基が石川源氏・石川氏と称し、
後に三河国に下った石川氏の与党と自称した。
天文2年(1533年)、
石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として
三河国で誕生した。
石川清兼は祖父、石川家成は叔父、
石川康通は従弟にあたる。
ところが、
天正13年(1585年)11月13日、
家康の下から秀吉の下へ出奔した。
理由は
「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉から帰順を説得された」などとされるが、
はっきりした理由は分かっていない。
数正は
三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、
この出奔は痛手であった。
以後、
三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。
その後、
秀吉から河内国内で8万石を与えられ、
秀吉の家臣として仕えた。
この時、
通称を出雲守に改め、
秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、
出雲守吉輝を称したと伝わる。
天正18年(1590年)の
小田原征伐で後北条氏が滅亡し、
家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本
(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封された。
松本の石高に関しては
従来の8万石、10万石の2説がある。
数正は
松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、
街道につないで流通機構の経路を掌握するための
城下町の建設、天守閣の造営など
政治基盤の整備に尽力した。
文禄2年(1593年)、死去。
享年60(数え年61)。
しかし没年には異説もあり、
文禄元年(1592年)12月に
京都の七条河原で葬礼が行われているため
(『言経卿記』)、
それ以前に死去の説もある。
肥前の国の陣中で亡くなった。
家督は長男の康長が継いだが、
遺領10万石のうち、
康長は8万石、二男の康勝は1万5,000石、
三男の康次は5,000石を
それぞれ分割相続する事となった。
2023/08/27
自転車屋の生き物歳時記 イナゴ
8月27日
日曜日
自転車屋の生き物歳時記
イナゴ
昨日の夕方
お店のガラス戸に
バッタのような物が止まったので見に行くと
イナゴだった!
田んぼのない都会の下町に
イナゴがいたとは驚いた!
イナゴ(蝗、稲子、螽)は、
直翅目・バッタ亜目・バッタ科(Acrididae)のうち、
イナゴ亜科(Oxyinae)などに属する種の総称。
狭義にはイナゴ属(Oxya)に属する種の総称。
稲を食べる害虫とされると同時に
長野県伊那谷や群馬県など
海産物が少ない山間地では水田から得られる
重要なタンパク源として食用にもされた。
イナゴ類は見た目がよく似たものが多く、
見分けるためには交尾器などの観察が必要である。
日本には少なくとも
8種以上のイナゴ属(Oxya)の種が生息すると言われるが、
完全には解明されていない。
「イナゴ」と名の付く種は
イナゴ属以外にもバッタ科の
下位の複数の亜科に存在する。
形態的には、
前胸腹側の前肢の間に下垂する突起があるものを
イナゴ類とすることがある。
この場合、
イナゴ類にはイナゴ亜科、セグロイナゴ亜科、
ツチイナゴ亜科の他に「イナゴ」とつかないが
フキバッタ亜科が含まれる。
(逆に、ヒナバッタ亜科のナキイナゴは含まれない。)
この形質をもってイナゴ科を設ける分類もあるが、
一般的ではない。
日本では昆虫食は
信州(長野県)など一部内陸地域を除き一般的ではない。
それでも、
イナゴはイネの成育中または稲刈り後の田んぼで、
害虫駆除を兼ねて大量に捕獲できたことから
海産物が少ない山間地で食べられた。
調理法としては、
串刺しにして炭火で焼く、鍋で炒る、
醤油や砂糖を加えて甘辛く煮付ける
イナゴの佃煮とするなど、さまざまなものがある。
イナゴは、
昔から内陸部の稲作民族に不足がちになる
タンパク質・カルシウムの補給源として利用された。
太平洋戦争中や
終戦直後の食糧難の時代を生きた世代には、
イナゴを食べて飢えをしのいだ体験を持つ者もいる。
長野県下伊那郡阿智村などでは、
「イナゴを黒焼にして食用油と練り湿疹治療薬」
「黒焼粉を喉に吹きつけ、扁桃腺を治す」という
民間療法があった。
昆虫食の1つとしてイナゴを食べる民族は多く、
アフリカ、中東、アジアなど
幅広い地域で食べられてきた。
画家のアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、
La Cuisine de Monsieur Momo
(モモ氏の食卓)の中でイナゴの網焼きを
「洗礼者ヨハネ風」と命名し、
茶色でも黄色でもなく、
ピンク色のイナゴがよいとしている。
2014年には、
和歌山県で大豆の代わりに
イナゴを使った醤油風調味料が開発された。