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2023/10/03

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 酒井忠次(左衛門尉)

10月3日
火曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

酒井忠次(左衛門尉)
(大森南朋)

酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。

徳川氏の家臣。

徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、
家康第一の功臣として称えられている。

大永7年(1527年)、
徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣
・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城
(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。

元服後、
徳川家康の父・松平広忠に仕え、
酒井小五郎、後に左衛門尉と称している。

竹千代(徳川家康)が
今川義元への人質として駿府に赴く時、
竹千代に従う家臣の中では
酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)として同行した。

この後、
松平元信(徳川家康)の配下として仕え、
弘治年間の初期頃より福谷城に住んでいる。

弘治2年(1556年)、
柴田勝家に2,000騎で福谷城を攻められた忠次は
城外に出て戦い、激しい攻防の末、
勝家を敗走させている。

この福谷城攻防については、
屈従時代の輝かしい武勇譚として
『東照軍艦』『武徳大成記』『家忠日記』
『大久保忠勝譜』『阿部忠政譜』
『御年譜』『徳川実紀』など
徳川家の記録類の多くに記述されている。

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、
徳川家の家老となり、
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、
酒井忠尚を始め
酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、
忠次は家康に従った。

永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、
守将の小原鎮実を撤退させ、
無血開城によって城を落とす戦功を立て、
戦後、吉田城主となっている。

これにより、
忠次は東三河の旗頭として
三河東部の諸松平家・国人を統制する
役割を与えられる(西三河は石川家成)。

永禄12年(1569年)末に
甲斐国の武田信玄は
今川氏真の領国駿河への侵攻を行い(駿河侵攻)、
徳川氏は当初武田氏と同盟し
今川領国の割譲を協定していたが、
忠次は武田方との交渉を担当している。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは
姉川沿いに陣取り、
小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。

元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、
敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは
分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった
鳶巣山砦からの強襲を敢行。

鳶巣山砦を陥落させ長篠城を救出した上に
勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、
有海村の武田支軍も討つ大功を挙げている。

家康の厚い信任を受けていた忠次は
天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で
織田信長からの詰問を受けたとき、
大久保忠世と共に弁解の使者に立てられて
安土城に赴いている。

この際、
忠次は信康を十分に弁護できず、
信康の切腹を防げなかったと言われる。

もっとも、
この信康切腹の通説に関しては
不自然な点や疑問点も多く、
『安土日記』(『信長公記』諸本の中で
最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や
『当代記』にあるように
信康の切腹は家康の意思であるという説が
近年では有力である(松平信康#信康自刃事件について)。

それを裏付けるように
以後も家康の重臣として仕え、
天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変の後、
家康は信長横死後に空白地帯となった
武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、同年6月27日には
忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る
(『家忠日記』)。

忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻するが、
諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反により失敗する。

また
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは
羽黒の戦いで森長可を敗走させるなど、
家康の主な戦いには全て参加している。

天正13年(1585年)に
同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは
家康第一の重臣とされ、
天正14年(1586年)10月24日に
家中では最高位の従四位下・左衛門督に
叙位任官されている。

天正16年(1588年)10月、
長男の家次に家督を譲って隠居する。

隠居の要因は加齢もさることながら、
眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだともいわれる。

京都におり、
豊臣秀吉からは京都桜井の屋敷と世話係の女と
在京料として1000石を与えられ、
この頃、入道して
「一智」と号したと一般的に伝わっている。

慶長元年(1596年)10月28日、
京都桜井屋敷で死去した。

享年70。

墓所は知恩院の塔頭・先求院。

墓は知恩院山腹の墓地内にある。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  酒井忠次(左衛門尉)

2023/10/02

豆腐の日

10月2日
月曜日

豆腐の日

「とう(10)ふ(2)」の語呂合せ。

日本豆腐協会が1993年(平成5年)に制定。

豆腐は大好きやね!

豆腐の日

2023/10/02

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 大久保忠世

10月2日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

大久保忠世
(小手伸也)

大久保 忠世(おおくぼ ただよ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

松平氏(徳川氏)の家臣。

三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の
大久保氏の支流である大久保忠員の長男。

蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる。

天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて
弟の忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好と共に活躍して
織田信長から
「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。

同年12月、
家康から二俣城の城主に命じられた。

忠世は武田氏の来襲に備えて城の改修を行ったが、
現在二俣城跡に残る天守台や、
二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは
忠世によるものと考えられている。

『三河物語』には記されていないが、
『松平記』によると
天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で
織田信長からの詰問を受けたとき、
酒井忠次と共に弁解の使者に立てられて
安土城に赴いている。

この信康切腹の通説に関しては
不自然な点や疑問点も多く、
『安土日記』(『信長公記』諸本の中で
最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や
『当代記』にあるように
信康の切腹は家康の意思であるという説が
近年では有力である
(松平信康#信康自刃事件について)。

また、
天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に
家康が甲斐・信濃に勢力を広げると、
忠世は信州惣奉行として小諸城に在番、
依田康国の監視を務めている。

天正13年(1585年)の上田合戦では
鳥居元忠・平岩親吉と大将として参陣しているが、
真田昌幸の前に大敗した。

その他、
家康に謀反し浪人した
本多正信の帰参を助けたりしている。

天正18年(1590年)、
後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、
豊臣秀吉の命により
小田原城4万5千石を与えられた。

文禄3年(1594年)死去、

享年63。

法名、了源院日脱大居士。

大久保家の家督は嫡男・忠隣が相続した。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  大久保忠世