2023/10/18
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 渡辺守綱
10月18日
水曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
渡辺守綱
(木村 昴)
渡辺 守綱(わたなべ もりつな)は、
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
徳川氏の家臣。
江戸幕府旗本・尾張藩付家老。
三河国寺部城城主。
徳川十六神将の一人。
三河渡辺氏は、松平氏の譜代家臣で、
平安時代の嵯峨源氏の武将・渡辺綱の後裔を称し、
系譜の上では、
渡辺綱の次男の筒井久の孫・渡辺伝の後裔と伝わる。
三河国額田郡浦部村(現在の愛知県岡崎市)出身。
守綱は、
若い頃から同年生まれの松平家康(のちの徳川家康)に
16歳で仕え17歳で初陣した。
槍が得手であり、
永禄5年(1562年)の三河国八幡の合戦で
今川氏家臣・板倉重貞に敗れた際、
後尾にあって奮戦した事以来「槍半蔵」と呼ばれ、
「鬼半蔵」の服部正成と並び称された。
しかし、
熱心な一向宗(本願寺)の門徒だったので、
翌永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆において、
蜂屋貞次(半之丞)ら他の門徒家臣と同じく家康に背き、一向一揆に加わった。
一揆が家康によって破られると反逆を許され帰参し、
以後は家康の主要な戦いの大半に参加。
姉川の戦いでは、
旗本一番槍をあげるなどの戦功を重ね、
旗本足軽頭として出陣した三方ヶ原の戦い、
長篠の戦い、
小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。
なお、
長篠の戦いでは山本勘助の嫡子・菅助を討ち取った。
天正18年(1590年)、
徳川氏が三河から関東地方に移封されると、
武蔵国比企郡に3,000石を与えられた。
慶長5年(1600年)には
長年の功績を賞せられて1,000石を加増、
騎馬同心30人の給分6,000石を付属させられ、
足軽100人の組頭となった。
慶長13年(1608年)、
家康の直命によって尾張藩主に封ぜられた
家康の九男・徳川義直の付家老に転じ、
武蔵の4,000石に加えて
尾張国岩作(愛知県長久手市岩作)で
尾張藩より5,000石、
三河寺部(豊田市寺部町)で幕府より5,000石を与えられ、併せて1万4,000石を領して寺部城を居城とした。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、
翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に出陣して
藩主・義直の初陣を後見。
元和2年(1616年)の家康死後、
領国尾張に入った義直を直に補佐し、
元和6年(1620年)に名古屋で死去した。
享年79。
のちに、
その功績から
家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。
2023/10/17
神嘗祭(かんなめさい)
元来は
新嘗祭の約2か月前に行われる祭祀であるが、
1879年(明治12年)以降、
神嘗祭が月遅れを採用しているため、
間隔が約1か月縮んでいる。
この両祭の関係について、
鈴木重胤は、租の納め始めの9月に先に神宮に奉り、
納め終わる11月に天皇がきこしめす(召し上がる)という順序を意味する、と説いた。
鈴木が重視したのは
「延喜式」の祝詞の新年祭における記述である。
稲作の起源は、
天照大神がニニギノミコトが中つ国に降る
(天孫降臨)に際して稲を授けて発した
「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」であり、
稲づくりは天つ神の命令、委任を受けた業である。
そのため、
収穫は自分(天皇)のものではなく
神のものであるということから、まず新穀を神々に献じ、「残をば」いただく、という
神勅の精神にのっとった祭祀であるといえる。
さらに、
内宮の祭神である天照大神は、
内宮の御饌都神(神饌を掌られる神)である
豊受大御神(外宮)に奉る。
これを根拠として、
神宮の祭典は原則として「外宮先祭」になっている。
神宮では
神嘗祭が最も重要な祭祀とされ、
神嘗祭のときに御装束・祭器具を一新する。
神宮の正月ともいわれる。
神宮の式年遷宮は、大規模な神嘗祭とも言われる。
神宮では、
式年遷宮後最初の神嘗祭を「大神嘗祭」とも呼ぶ。
伊勢の民衆は、
この祭りを「おおまつり」と呼び、奉祝の行事を行う。
神宮の神職や伊勢の神領民は
この祭りが終わるまで新穀を口にしないとされる。
かつては
9月11日(旧暦)に勅使に御酒と神饌を授け、
9月17日(旧暦)に奉納した。
1873年(明治6年)の太陽暦採用以降は
新暦の9月17日に実施となったが、
稲穂の生育が不十分な時期であるため、
1879年(明治12年)以降は月遅れとして
10月17日に実施されている。
また、
「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および
「休日ニ関スル件」により、
1874年(明治7年)から1947年(昭和22年)まで
同名の祝祭日(休日)であった。
新嘗祭は
「勤労感謝の日」として現在まで
祝日として継続しているが、
神嘗祭は戦後は平日となっている