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2023/10/17

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 服部正成(二代目 服部半蔵)

10月17日
火曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

服部正成(二代目 服部半蔵)
(山田孝之)

服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は
戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。

通称は半蔵(はんぞう)で、
服部半蔵の名でよく知られている。

天正10年(1582年)6月、
信長の招きで家康が少数の供のみを連れて
上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、
このとき堺に滞在していた家康一行が
甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に帰還した、
いわゆる「伊賀越え」に際し、
先祖の出自が伊賀である正成は
商人・茶屋四郎次郎清延とともに
伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、
彼らに警護させることで一行を安全に通行させ、
伊勢から船で三河の岡崎まで護衛した。

同地で味方となった彼らは
後に馬廻、伊賀同心、甲賀同心として
徳川幕府に仕えている。

この時、
正成は栗という場所にいた所を召し出され
伊勢の白子まで同行したという。

正成は一揆勢に対し道をあけるよう大声で呼びかけ
その隙に家康らを通行させたが、
相手が襲ってきたため馬を乗り入れて応戦した。

しかし土塁に駆け上がった際に堀へ転落し、
上から槍で脚を十ヶ所近く突かれ気を失った。

家臣の芝山小兵衛は家康へ
「正成は討ち死にした」と伝えたが、
遺体を回収しようと戻ったところ生きていたため、
これを介抱しながら共に帰ったという。

岡崎に帰着した後の6月15日、
正成は御先手頭を申し付けられた。

天正11年8月、
正成は命を受け、伊賀者200人を率いて
甲斐国の谷村城(山梨県都留市)城番となり
守備にあたった。

天正12年3月、
小牧・長久手の戦いでは
伊勢松ヶ島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、
鉄砲で豊臣方を撃退している。

正成は二の丸を守備し、筒井勢を防いだ。

続く蟹江城の奪還戦で
正成と配下の伊賀鉄砲衆は松平康忠と共に
東の丸(前田口)の包囲に加わり、
井伊直政の大手口突入が始まると二の丸へ攻め入った。

天正18年(1590年)
小田原征伐に鉄砲奉行として従軍した。

正成は大組百人の組頭として
根来衆50人を率いていたという。

この時、日下部兵衛門(根来衆50人)、
成瀬吉右衛門(成瀬正成の誤り、30人)も
大組百人の組頭を務めている。

戦で正成は十八町口にて奮戦し、
首を十八級挙げたという。

小田原の陣の功により
遠江に知行を与えられた正成は、
家康の関東入国後は
与力30騎および伊賀同心200人を付属され
同心給とあわせて8,000石を領した。

自身は武将であったが、
父親である保長が伊賀出身で忍びの出であった縁から
徳川家に召し抱えられた
伊賀同心を統率する立場になったという。

文禄元年(1592年)
肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する。

徳川の陣営は前田利家の陣営と隣同士であり、
共用の水汲み場で下人や足軽らの諍いが起きた。

集まった両陣営の人数は
戦いが起きる寸全にまで膨れ上がったため、
正成は配下の兵に命じて火縄に点火させ、
前田の陣に鉄砲を向けたという。

また、
「正成は争いを収めようと肌脱ぎ駆け回ったが収まらず、本多忠勝が出てようやく事態が収まった」
とする説もある。

この戦が正成にとって最後の出陣となった。

慶長元年11月14日(1597年1月2日)
病没し、江戸麹町清水谷の西念寺に葬られた。

死因となった病名は現在も不明である。

正成は隊士のために
横死したとする説を記載する史料もあるが、
真偽は定かではない。

また、没した日について、
寛政重修諸家譜は
服部家の家伝や西念寺の墓碑とは異なる
慶長元年11月4日と記している。

西念寺は、
正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した
浄土宗の庵・安養院の後身である。

安養院は江戸麹町の清水谷
(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にあり、
正成は1593年(文禄2年)
家康から300両を与えられ
寺院を建立するよう内命を受けたが、
西念寺の完成を待たず死去した。

その後、
西念寺は江戸城の拡張工事のため
1634年(寛永11年)頃に現在地に移転したとする。

西念寺の山号・寺名は彼の法名に因み、
現在も毎年11月14日に
「半蔵忌」の法要が行われている。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  服部正成(二代目 服部半蔵)

2023/10/16

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 本多正信

10月16日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

本多正信
(松山ケンイチ)

本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、
戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。

徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。

相模国玉縄藩主。

正信系本多家宗家初代。

天文7年(1538年)、
本多俊正の次男として三河国で生まれ、
徳川家康に仕えた。

桶狭間の戦いの際には
今川義元の命で丸根砦を攻める家康に従い、
その合戦において膝に傷を負って以来
足を引きずるようになったという(『佐久間軍記』)。

しかし
永禄6年(1563年)、
三河一向一揆が起こると、
一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対。

一揆衆が家康によって鎮圧されると、
徳川氏を出奔して加賀国に住した。

『藩翰譜』によると、
三河を出た後京へと向かい、
その後加賀に赴いたとされる。

また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ、そこで織田信長と戦ったともされる。

この後、
大久保忠世のとりなしにより
徳川氏に帰参することとなり、
初め鷹匠として仕えたという。

帰参時期は諸説あって定かではない。

早ければ
元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃、
最も遅くとも本能寺の変の少し前の頃には
正式に帰参が叶っていたようである。

天正10年(1582年)頃には、
既に家康の信任を取り戻していたようであり、
この頃以降、
重臣として要職を歴任していくようになる。

天正10年(1582年)、
本能寺の変が起こって信長が横死すると、
当時、堺の町に滞在していた家康は伊賀越えを決意する。

このとき、
正信も伊賀越えに付き従ったともいわれる
(『藩翰譜』。但し判明している34名の伊賀越えに
同行した供廻の中に正信の名はない)。

その後、
天正壬午の乱を征した家康が旧武田領を併合すると
奉行に任じられ、
甲斐・信濃の実際の統治を担当した。

武田家臣団を取り込むため、
本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼びかけた。

天正14年(1586年)
家康が豊臣秀吉に服属すると、
秀吉の推薦で家康の重臣達にも叙位・任官がなされ、
正信も従五位下、佐渡守に叙位・任官された。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、
家康が秀吉の命令で関東に移ると、
相模国玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。

その後、
家康不在の江戸で普請の監督を行った一方、
文禄2年(1593年)3月7日には母を亡くしている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、
徳川秀忠の軍勢に従い、
信濃上田城で真田昌幸の善戦及び川の増水に遭い、
遅参している。

この時、
正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。

『大久保家留書』によると、
関ヶ原の戦い以降の徳川家の軍議で、
家康の後継者を巡って、
井伊直政は娘婿の松平忠吉を、
大久保忠隣は秀忠を支持することを表明した。

それに対して正信は長男の正純とともに
結城秀康を支持することを表明したと伝わる。

慶長6年(1601年)からは、
家康が将軍職に就任するために
朝廷との交渉で尽力したといわれる。

更にこの頃、
本願寺では前法主・教如と法主・准如の兄弟が
対立していたため、
これを利用して本願寺の分裂を促すことを家康に献策。

かつて自らも身を投じていた
本願寺の勢力を弱めさせた。

慶長8年(1603年)に
家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、
家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。

慶長10年(1605年)に
家康が隠居して大御所となり、
秀忠が第2代将軍になると、
正信は江戸にある秀忠のもとで幕政に参画し、

慶長12年(1607年)からは
秀忠付の年寄(老中)になった。

慶長17年(1612年)には
子の正純の家臣・岡本大八による
朱印状偽造が発覚している(岡本大八事件)。

なお、
慶長18年(1613年)の大久保長安事件、

慶長19年(1614年)の大久保忠隣失脚に
関わったとされるが、
正信主導をうかがわせる同時代の史料は確認できない。

慶長18年(1613年)、
暇を許されて駿府から江戸に帰府する際、
家康から万病円200粒と八味円100粒を与えられている(『駿府記』)。

元和2年(1616年)4月、
家康が死去すると家督を嫡男の正純に譲り隠居して
一切の政務から離れ、6月7日に死去した。

享年79。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  本多正信

2023/10/16

ボスの日

10月16日
月曜日

ボスの日

1958年に、
アメリカのパトリシア・ベイ・ハロスキ
(Patricia Bays Haroski)が、
会社を経営していた父のために、
経営者と部下の関係を円滑にする日として提唱し、
アメリカ商業会議所に登録されたことが始まり。

アメリカではこの日に、
ボスを昼食に招待したりプレゼントを贈ったりして
日頃の労をねぎらう。

日本でも
1988年からデパート業界が実施している。

日本では
まったく定着していませんね。

ボスの日