2023/11/09
「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 大谷吉継(西軍 首謀者の朋友)
11月9日
木曜日
「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集
大谷吉継(刑部)
(西軍 首謀者の朋友)
(忍成修吾)
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)
永禄8年〈1565年〉- 慶長5年9月15日
〈1600年10月21日〉)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。
領地・石高は越前敦賀5万7000石。
名前については「吉隆」ともされるが、
現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。
通称は紀之介、号は白頭。
官途は刑部少輔で、
大谷 刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。
業病を患って失明し、
関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執ったが、
小早川秀秋らの離反で敗戦すると
家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して死去した。
慶長5年(1600年)、
家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して
上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。
家康とも懇意であった吉継は、
所領地である敦賀・自らが代官を務める
蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて
討伐軍に参加するべく領国を立ち、
途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。
吉継は三成と家康を仲直りさせるために
三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に
従軍させようとしたが、
そこで親友の三成から
家康に対しての挙兵を持ちかけられる。
これに対して吉継は、3度にわたって
「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、
三成の固い決意を知り熱意にうたれると、
敗戦を予測しながらも息子達と共に
三成の下に馳せ参じ西軍に与した。
8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、
この後北国口の兵3万100の大将とされた。
また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、
西軍の一員としての行動を開始する。
大谷氏は一族挙げて西軍につき、
吉継の母・東殿は高台院の代理として
宇喜多秀家が行った出陣式に出席している。
9月、
吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱
・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて
美濃国に進出する。
そして9月15日(10月21日)、
東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。
この時、
吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に
大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、
合わせて5,700人で布陣する。
陣中にはこの他、
織田信長の子・織田信吉と長次の兄弟、
蜂須賀家政の重臣・高木法斎らが加わっていた。
吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、
午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を
相手に奮戦した。
正午頃、
松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が
東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、
初めから小早川隊の謀叛に備えていた
直属の兵600で迎撃し、
更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、
兵力で圧倒する小早川隊を
一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し
山へ追い返したという。
その激戦ぶりは
東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた
奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも
うかがえる。
しかし
吉継が追撃を仕掛けたところへ、
秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川
・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、
大谷隊に横槍を仕掛けた。
これにより大谷隊は前から東軍、
側面から脇坂らの内応諸隊、
背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け
防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。
享年42もしくは36。
吉継率いる大谷軍の敗北は戦場の趨勢を一変させ、
西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。
西軍の諸将の多くが
戦場を離脱したにもかかわらず自害をしたのは、
高台院の甥である秀秋に討たれることで、
高台院への恩義に報いようとした
結果の討死にではないかといわれている。
自害した吉継の首は
側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ
(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかった。
異説では切腹した吉継の首を
家臣・三浦喜太夫が袋に包んで
吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、
祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。
現地には首塚も建てられている。
吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、
五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にした。
居城敦賀城は
家臣・蜂谷将監が東軍に引き渡しを行った。
また、
関ヶ原の戦い直後に勅勘が許されて
京都に帰還を許された山科言経と冷泉為満に与える
屋敷地が公家町の中に用意できなかった徳川家康は
没収していた原勝胤と吉継の母の屋敷地
(公家町の北隣にあった)を両者に
宛がっていることが知られる。
辞世は
「契りとも 六の巷に まてしばし
おくれ先立つ 事はありとも」で、
これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた
平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は
惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」
への返句となっている。
墓所は、
居城のあった福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔、
岐阜県関ケ原町にも湯浅隆貞の墓と隣接して
石塔が設けられ、少なくとも2ヵ所に供養塔があり、
また前述のように
祐玄が首を持ちかえったとされる
伝承に基づく首塚が滋賀県米原市下多良に残っている。
2023/11/09
119番の日
11月9日
木曜日
119番の日
1987年(昭和62年)に
消防庁が制定
消防用の通報電話が119番である事から
この日から
15日までは
秋の全国火災予防運動が展開される。
2023/11/08
「どうする家康」関ヶ原特集 小早川秀秋(寝返り裏切り者)
11月8日
水曜日
「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集
小早川秀秋
(金吾中納言)
(西軍 寝返り裏切り者)
(嘉島 陸)
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、
安土桃山時代の武将、大名。
丹波国亀山城城主、
筑前国名島城城主を経て備前国岡山城城主。
秀秋は当初、
慶長5年(1600年)7月18日から8月1日の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。
その後は
近江や伊勢で鷹狩りなどをして一人戦線を離れていたが、突如として決戦の前日に当たる9月14日に、
1万5,000の軍勢を率い、
関ヶ原の南西にある松尾山城に
伊藤盛正を追い出して入城した。
関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、
午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。
たびたび使者を送ったにもかかわらず
傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていたといい、
秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけたともいう。
ただし、
藤本正行は当時の信用出来る史料で
威嚇射撃は裏付けることはできないとして、
家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする。
現代の実地調査では、
地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、
現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、
秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、
もしくは家康からの銃撃であるとは
識別出来なかった可能性が高いことも指摘されている。
さらに近年では一次史料
(「慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通
・彦坂元正連署書状」など)より、
関ヶ原本戦開始は午前10時ごろで、
秀秋の離反も開戦直後であった
(傍観の事実も家康による催促の事実もない)とする
見方も浮上している。
いずれにせよ、
秀秋は最終的には松尾山を下り、
西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。
この際、
小早川勢で一手の大将を務めていた
松野重元は主君の離反に納得出来なかったため、
無断で撤退している。
秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも、
平塚為広・戸田勝成とともによく戦って
小早川勢を食い止めたが、
秀秋の離反から連鎖的に生じた
脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠
・赤座直保らの離反を受け、
吉継・為広・勝成の諸将は討死した。
これにより大勢は決し、
夕刻までに西軍は壊滅、
三成は大坂城を目指し伊吹山中へ逃亡した。
関ヶ原本戦の翌日以降に行われた
三成の居城佐和山城攻めなどでも秀秋は出陣している。
この秀秋の離反については、
当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝と
その頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって
調略が行われており、
長政と浅野幸長の連名による
「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と
書かれた連書状が現存している。
白川亨・三池純正らの、
「高台院は西軍を支持していた」という
異なる説やその他傍証もあり、
この書状の内容について研究が待たれている
(内容では北政所のために東軍につけとは
直接言ってはいない)。
また、
本戦の開始前より離反することを
長政を通じて家康に伝えており、
長政は大久保猪之助、家康は奥平貞治を目付として
派遣している。
一方で
三成、吉継ら西軍首脳も
秀秋の行動に不審を感じていたらしく、
豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、
上方2か国の加増を約束して
秀秋を慰留したとする史料もある。
ただし、
その史料は正徳3年(1713年)成立の
「関原軍記大成」に収録されている書状で
原本は確認されておらず、
また文体に不審な点があることから
偽文書の可能性がある。
松尾山は12日の時点で
「中国勢を置く」との増田長盛宛の
石田三成の書状が確認されており、
それまで陣取りしていた
大垣城主・伊藤盛正を追い出して着陣している。
関ヶ原決戦が計画的なものでなく、
突発的なものであったとする説では、
三成は秀秋が松尾山城に陣取ったことで、
最後尾の大谷勢の陣が脅かされて背後に脅威を得、
急遽大垣城を出ざるを得なかったとする。
事実、
大谷勢の陣は松尾山城に向かって
構築されていたことが確認されている。
『関ヶ原の闘い』で西軍方を裏切った行為に付いて、
当時の秀秋への世評は芳しいものではなく、
豊臣家の養子として出世したにもかかわらずに裏切り、
西軍を瓦解させた事は
卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた。
戦後の論功行賞では
備前国・美作国・備中国東半にまたがる、
播磨国の飛び地数郡以外の
旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。
戦後まもなく秀秋から秀詮へと改名している。
秀詮はこの国替えの際に
前領地の筑前国より年貢を持ち去っている。
岡山城に入った秀詮は家臣の知行割り当て、
寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、
伊岐遠江守・林長吉ら側近勢力の拡充を図っている。
慶長6年(1601年)、
家老を長年勤めた重臣・稲葉正成が
小早川家を出奔しているが、
この背景には旧来の家臣団層と新たに台頭してきた
側近層との対立が背景にあると考えられる。
慶長7年(1602年)10月18日、死去。
22歳。
聖護院道澄の残した記録によると、
上方から帰国の途上で行った鷹狩の最中に体調を崩し、
その3日後に死去したと記されている。
秀詮のこの早世に関しては、
秀秋の裏切りによって討ち死した
大谷吉継の祟りによるものとする逸話も残されているが、実際に残されている病歴からは
酒色(アルコール依存症)による
内臓疾患が死因として最有力となっている。
曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)が記した
『医学天正記』には、
慶長6年(1601年)7月に、
酒疸による黄疸の症状が激しくなり
治療をしたことが記されている。
『黄疸』の項目には、
大量の飲酒による黄疸、みぞおちあたりのしこり、
飲食ができず喉が渇く云々とある。
『黄疸』のほか、
『内傷付飲食(飲食の不摂生による内臓の疾患)』
『消渇(糖尿病)』の項目に名前が上がり、
食欲不振、酒を飲むと吐く、
舌が黒く尿が赤いなどと書かれている。
秀詮の死後、
小早川家は無嗣断絶により改易された。
これは徳川政権初の無嗣改易であった。
秀詮の旧臣たちは
関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったなどといわれることがあるが、
実際には最後まで秀詮に仕えた後に幕府に召し出され、
大名となって立藩した平岡頼勝がいるほか、
前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいた。