2023/10/31
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 榊原康政(小平太)
10月31日
火曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
榊原康政(小平太)
(杉野遥亮)
榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、
室町時代後期から江戸時代初期にかけての武将、大名。
上野国館林藩の初代藩主。
徳川氏の家臣。
康政流榊原家初代当主。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、
現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。
榊原氏は三河仁木氏の一族と自称し、
後に伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称した。
後に伊勢に残った本家筋の系統と
三河に戻った分家筋の系統があったと称するが、
永正15年(1518年)頃の松平家の奉行人の1人には
既に「榊原主計忠直」が存在していたことが確認できる。
康政の系統は
松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣の家柄であり、
有力な存在とは言えなかった。
天文17年(1548年)、
榊原長政の次男として三河国上野郷
(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。
幼い頃から勉学を好み、
書を読んで、字も大変上手かったという。
13歳の時、
松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。
三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、
家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。
康政は兄・榊原清政を差し置き
榊原家の家督を相続している。
この理由として、
清政が謀反の疑いで切腹した
家康の長男・松平信康の傅役であったことから、
後悔の念で自ら隠居したためとも、
清政が病弱であったため、
度々康政が名代を務めることが多く、
それ故に康政が家督を継いだともいわれるが
定かではない。
家康が関東に移封された後、
康政は度々清政を見舞っている。
62年に父の長政が死去し、
長政の弟の榊原一徳斎が康政を養子として後見した。
永禄9年(1566年)、
19歳で元服。
同年齢の本多忠勝と共に
旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。
以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは
朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。
元亀3年(1572年)の
三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった
味方兵を呼び集めて夜を待ち、
一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、
動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから
浜松城に入ったという。
天正3年(1575年)の
長篠の戦いでは決死の覚悟で
徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。
天正9年(1581年)の
高天神城の戦いでは先陣を務めた。
翌天正10年(1582年)の
本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。
天正12年(1584年)、
家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。
この合戦で
秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、
森長可、池田恒興を討ち死にさせた。
また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、
康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、
これに憤怒した秀吉は
康政の首を獲った者には十万石を与えるという
触れまで出したという。
この後、天下を掌握した秀吉とは和解している。
家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。
天正14年(1586年)11月、
家康の上洛に随身し、
家康は同月5日、正三位に昇叙し、
康政は同月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、
豊臣姓を下賜された。
天正18年(1590年)、
小田原征伐では徳川軍の先手を務める他、
城の受け取り役や、
北条氏政、北条氏照切腹の検死役を務めている。
同年、
家康が関東に移封されると関東総奉行として
本多正信らを監督し、江戸城の修築に務める傍ら、
上野国館林城(群馬県館林市)に入り、
忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。
館林では
堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、
街道整備などに力を注いだ。
慶長4年(1599年)、
宇喜多秀家の家中で家臣内での対立が起こった。
宇喜多騒動と呼ばれるこの家中内紛を、
越前国敦賀城主の大谷吉継と
徳川家康の家臣である榊原康政が
調停役として派遣された。
康政が派遣された理由については、
政務実務能力を買われたことは元より、
康政の側室が宇喜多家臣の
花房氏の縁戚であったことが考えられる。
多くの処分者と離反者を出して騒動は終息したが、
この時宇喜多家を離れた人材に
戸川達安・岡貞綱・宇喜多詮家(坂崎直盛)および、
花房氏の花房正成・花房職秀(職之)がいる。
彼らは皆、徳川氏の家臣となっている。
この大量離脱により、
豊臣氏の有力大名であった宇喜多家は家中が混乱し、
重臣らの離脱により大きく軍事力を減らし、
翌年に起きた関ヶ原の戦いに影響を与えたとされている。
康政は
伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、
国許での政務が滞ることになった。
そのことで家康より叱責をうけ、
康政は国許へ帰らされた。
なお、
花房職之の子の職直はのちに康政の養子となっているが、これも側室花房氏の縁および
宇喜多騒動当時の知縁が推測されている。
慶長4年(1599年)頃、
石田三成が伏見館の家康を襲って
誅殺しようとしているという動きがあったといわれ、
康政は情報を得てすぐに家康の元に馳せ参じ、
守ったという。
この時、
すぐには伏見館に入らず、
東国から押し寄せた家康を守る兵の数を
少しでも多く見せようと考え、
関所を設けて人々の往来を制限。
それと共に兵を京、伏見、淀に送って、
「今家康の兵十万が東国より来て陣を取っており、
兵糧を買いつけたい」と言って、
兵糧として赤飯、饅頭、餅、酒を
一つ残らず買い取ると触れ回ったという。
慶長5年(1600年)、
関ヶ原の戦いにおいては、
主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、
中山道を辿り美濃国を目指すが、
荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、
信濃上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻めを中止し、
美濃に向かったもののやはり荒天で、
秀忠とともに合戦に遅参する(上田合戦)。
『藩翰譜』によれば、
家康は秀忠の失態に激怒したが、
康政のとりなしで事なきを得て、
伏見城での対面が許され、
秀忠は康政に大変感謝したと言われる。
また、
康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように
進言したとも言われている。
関ヶ原の戦いの後に老中となるが、
所領の加増は無かった。
よく言われる
「家康が古参家臣に冷淡であった」とする
根拠の1つとして、武功派家臣で、
大きな失態のなかった康政を
躊躇なく遠ざけた史実が挙げられることもあり、
その際には康政らは
これに憤慨していたという形で語られる。
これとは別に、
次の世代の大久保忠隣・本多正純が
既に老中となっていたため、
康政が「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、
自ら離れていったとする説もある。
一説には
家康から水戸に加増転封を打診されたが、
関ヶ原での戦功がないこと、
館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に
断ったのだとも言われる。
家康は康政の態度に感銘して、
康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。
慶長8年(1603年)には
近江国に在京料として五千石が加増されている。
慶長11年(1606年)5月6日に
毛嚢炎を煩い悪化、14日巳刻に館林にて死去。
関ヶ原の戦い後の対応で康政に恩ある秀忠は、
病床にある康政を見舞うため医師や家臣を遣わせたが、
その甲斐なく59歳で没した。
葬儀の際に側近の南直道が追腹を行った。
後継の康勝の許可により、
その墓は康政の隣に建てられている。
長男の忠政は
母方の大須賀家を継ぎ、
次男の忠長は夭折していたことから
家督は三男の康勝が継いだ。
大正4年(1915年)11月9日、
贈正四位。
2023/10/31
ハロウィンの起源
10月31日
火曜日
ハロウィンの起源
起源は
古代ケルトのドルイドの信仰で、
新年の始まりは冬の季節の始まりである
11月1日のサウィン(サオィン、サワーン、サーウィンまたは、サウィーン)祭であった。
ちょうど短い日が
新しい年の始まりを示していたように、
日没は新しい日の始まりを意味していた。
したがって、
この収穫祭は毎年
現在の暦で言えば10月31日の夜に始まった。
アイルランドと
英国のドルイド祭司たちは、
かがり火を焚き、作物と動物の犠牲を捧げた。
また、
ドルイド祭司たちが火のまわりで踊るとともに、
太陽の季節が過ぎ去り、
暗闇の季節が始まった。
11月1日の朝が来ると、
ドルイド祭司は、
各家庭にこの火から燃えさしを与えた。
各家族は、
この火を家に持ち帰り、
かまどの火を新しくつけて家を暖め、
悪いシー(ケルト神話の妖精。ちなみに「バンシー」とは「女の妖精」の意。)などが
入らないようにする。
1年のこの時期には、
この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で
自由に行き来が可能となると
信じられていたからである。
祭典ではかがり火が大きな役割を演じた。
村民たちは、
屠殺した牛の骨を炎の上に投げ込んだ。
かがり火が燃え上がると、
村人たちは他のすべての火を消した。
その後、各家族は厳粛に
この共通の炎から炉床に火をつけた。
元々は
日本で言う所の
秋の収穫祭と
お盆を合わせたような行事だった訳ですが
アメリカに渡ってから
子供たちが仮装をして
お菓子を貰うと言う
まったく別な行事に変貌していると言う事ですね。
2023/10/30
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 本多忠勝(平八郎)
10月30日
月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
本多忠勝(平八郎)
(山田裕貴)
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
徳川氏の家臣。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。
忠勝系本多家宗家初代。
本姓は藤原氏。
通称は平八郎(へいはちろう)。
天文17年(1548年)、
安祥松平家(徳川本家)の最古参の譜代である
安祥譜代の本多氏で、
本多忠高の長男として、
三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。
天文18年(1549年)、
父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。
幼い頃から徳川家康に仕え、
永禄3年(1560年)
13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である
大高城兵糧入れで初陣する。
このとき、同時に元服した。
永禄6年(1563年)の
三河一向一揆に徳川方として参戦している。
忠勝が一次史料に現れるのは、
永禄11年(1568年)の祝田新六に宛てて出された、
家康の書状に対する副状である。
忠勝は新六の働きを褒め、
懸命に取り成すので褒美のことは
自分に任せてほしいと伝えている。
この時期から家康への
他の国衆の取次役を担っていたことが分かる。
今川義元が敗死し、家康が今川家から独立し、
織田信長との清洲同盟締結後、
忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦した。
永禄6年(1563年)9月の
三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、
一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して
家康側に残り武功を挙げた。
永禄9年(1566年)には
19歳にして旗本先手役に抜擢されて、
与力54騎を付属される。
以後、
忠勝は常に家康の居城の城下に住み、
旗本部隊の将として活躍した。
元亀元年(1570年)の
姉川の戦いにも参加し、
家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して
無謀とも思える単騎駆けを敢行。
そしてこの時
必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が
反撃となって朝倉軍を討ち崩した。
この戦いにおいて忠勝は
朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との
一騎討ちで勇名を馳せた。
元亀3年(1572年)の
二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いでは
偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。
報告するために撤退するが、
武田軍に追撃され、
大久保忠佐と共に殿軍を務め、
坂下という不利な地形に陣取り、
馬場信春の部隊を相手に奮戦し、
家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。
この時に忠勝が着ていたのが
鹿角の兜に黒糸威の鎧であった。
同年12月の三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、
山県昌景隊と戦い、撃退している。
天正元年(1573年)の
長篠城攻めでは9月に堀越で
榊原康政等と共に武田軍を破り、
獲得した長篠城に入り、城を守っている。
天正3年(1575年)の長篠の戦い、
天正8年(1580年)の高天神城奪還戦にも参戦している。
これらの合戦における
忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、
家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。
手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。
鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と
忠勝を詠んだ川柳もある。
天正10年(1582年)、
本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、
家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを
忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという。
この時、
帰路の途中の木津川で船に乗った際、
渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、
追手が使用するのを防いだという。
天正12年(1584年)4月の
小牧・長久手の戦いでは、
当初忠勝は留守を任されたのだが、
豊臣方16万の大軍の前に
徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、
忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、
5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、
さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて
悠々と馬の口を洗わせたが、
この振舞いを見た豊臣軍は
逆に進撃をためらい戦機は去った。
この豪胆な振舞いや活躍などにより、
豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された。
また、織田信雄にも賞され、
法成寺という刀を賜った。
徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると
天正14年(1586年)11月9日
(天正16年(1588年)4月とも)、
従五位下・中務大輔に叙位・任官された。
天正18年(1590年)、
家康が関東に移封されると
上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に
榊原康政と共に、
家臣団中第2位の10万石
(1位は井伊直政の12万石)を与えられる。
江戸から遠くなっているのは、
「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、
家康の配置方針による。
康政は北の真田氏や上杉氏に対する備え、
忠勝は安房国の里見氏に対する備えである。
また
川村優は里見氏に対する備えとみたうえで、
上総国内の里見系・北条系国人層を
分断、制圧する絶好の位置で、
久留里・佐貫との連携プレーをする位置で
上総国内の有力国人層の制圧が目的と分析している。
ただし、
近年の研究では大多喜城が居城に定められたのは、
天正19年(1591年)初頭ごろで、
それまでの半年ほどの間は家康ではなく、
秀吉の承認を経て同じ夷隅郡の万喜城(現在のいすみ市)を居城にしていたとされている。
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは、
当初上田城攻略における対真田交渉を期待されていたが、途中東海道を進発することになり、
東山道の徳川秀忠隊を離れ、
対真田交渉は嫡男の忠政に引き継がれている。
また
忠勝自身も加藤貞泰との交渉において活躍をしている。
前哨戦ともいえる
竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、
また石田三成重臣・島左近に敗れた
中村一栄隊と有馬豊氏隊の撤退の手助け、
吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って
東軍方につける工作にも活躍した。
本戦でも奮戦し、
わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。
この功績により、
慶長6年(1601年)、
伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、
旧領・大多喜は次男・本多忠朝に
別家5万石で与えられた。
これは一説に
家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、
忠勝が固辞したために
家康が次男に与えたとされている。
一方で、関ヶ原合戦後に
忠勝は一国が与えられることを望み、
家臣へ与える知行の目録まで
作成して待っていたが叶えられず、
訪れた阿部正次にこの話をした後に
目録を焼いたとされる。
忠勝は
桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、
慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、
桑名藩創設の名君と仰がれている。
晩年は、
戦乱の収束により本多正純などの
若く文治に優れた者(吏僚派)が
家康・秀忠の側近として台頭し、
忠勝自身も
慶長9年(1604年)頃から病にかかるようになり、
江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。
先述のように病にかかり隠居を申し出るも、
この際は家康に慰留されている。
その後、
慶長12年には眼病を煩い、
慶長14年(1609年)6月、
嫡男・忠政に家督を譲って隠居する。
慶長15年(1610年)閏2月には
三河国田原で徳川秀忠が挙行した
大規模な巻狩に同行した。
同年10月18日に桑名で死去した。
享年63。
この際に
重臣の中根忠実と梶勝忠両名が殉死し、
忠勝の左右に埋葬された。
忠勝は臨終に際して
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、
事の難に臨みて退かず。
主君と枕を並べて討死を遂げ、
忠節を守るを指して侍という(略)」という
言葉を遺している。