2023/11/13
「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 福島正則(東軍 主力先陣)
11月13日
月曜日
「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集
福島正則
(東軍 主力先陣)
(深水元基)
福島 正則(ふくしま まさのり)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての
日本の武将で、大名。
賤ヶ岳の七本槍、七将の一人としても知られている。
安芸国広島藩主、
後に信濃高井田藩の初代藩主。
慶長5年(1600年)の
会津征伐には6,000人を率いて従軍。
その途中、
上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、
家康の意を受けた黒田長政に
あらかじめ懐柔されていた正則が
三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、
いち早く家康の味方につくことを誓約し、
反転して西上する方針が決定する。
清洲から美濃方面に進軍し、
西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは
池田輝政と先鋒を争い、
黒田長政らと共同で城を陥落させる。
関ヶ原の戦いでは、
宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った。
宇喜多勢の前衛8,000を率いた明石全登に、
福島勢は一時退却を余儀なくされたが、
なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。
やがて
小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は崩壊した。
宇喜多勢は、
開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、
東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。
合戦後、
正則は西軍総大将・毛利輝元からの
大坂城接収にも奔走し、
戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)。
慶長6年(1601年)3月に
芸備に入封した正則は、
早くも領内を巡検するとともに、
検地で石高の再算出を行った。
家臣への知行割も事実上の給米制とし、
検地の結果を農民に公開した上で
実収に伴った年貢を徴収して
負担を少なくするなどの善政を敷き、
また領内の寺社の保護にも熱心であり、
慶長7年(1602年)には
厳島神社の平家納経を修復させた。
慶長7年(1602年)、
本姓が豊臣姓であることが確認される。
慶長8年(1603年)、
安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を始める。
この城は毛利領最東端の岩国城に対する城で、
さらに山陽道の交通を遮断する能力も備えていた。
慶長9年(1604年)以降、
江戸幕府による諸城修築の動員に
参加して忠勤に励んだが、
豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。
慶長13年(1608年)、
豊臣秀頼が病を患うと、
正則は見舞に大坂城へ駆けつけている。
慶長16年(1611年)3月、
家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、
いまなお
豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を
加藤清正や浅野幸長とともに説得し、
秀頼の上洛を実現させた。
なお
正則自身は病と称して会見に同席せず、
枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた。
この会見直後に
清正や浅野長政・幸長父子、
池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も
慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出る。
しかしそれも許されず、
大坂の陣では秀頼に加勢を求められても、正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった
蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。
また、
一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わった。
幕府には従軍も許されず、
正則は冬の陣、夏の陣ともに
江戸留守居役を命じられたが、
嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。
しかし戦後、
正則の弟の福島高晴は豊臣家に内通したとして、
幕府より改易を命じられた。
元和5年(1619年)、
家康死後まもない頃、
台風による水害で破壊された広島城の
本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を
無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。
正則は
その2ヶ月前から届けを出していたが、
先年にも一国一城令発布後にもかかわらず
新規に築城を行ったとして、
毛利家から報告を受けた幕府より
該当城の破却を命じられた後のことでもあり、
幕府からは正式な許可が出ていなかった。
福島側の言い分では、
雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。
江戸参勤中の正則が謝罪し、
修繕した部分を破却するという条件で
一旦は沙汰止みになったものの、
求められた「本丸以外の修築分を破却」
という条件に対し、
正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、
二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。
これにより「破却が不十分である」と咎められる。
また、
人質として江戸に送るはずだった
忠勝の出発を遅らせたこと、
それに対して「万事親次第」と
弁明を拒否するなどしたため、
怒った将軍・徳川秀忠の上使として
牧野忠成と花房正成が江戸芝愛宕下の
正則の屋敷に派遣され、
安芸・備後50万石は没収、
信濃国川中島四郡中の高井郡と
越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に
減転封の命令を受けることとなった。
移封後、
正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。
出家して高斎と号した。
元和6年(1620年)9月、
忠勝が早世したため、
正則は2万5,000石を幕府に返上した。
寛永元年(1624年)7月13日、
正則は高井野(長野県高山村)で死去した。
享年64。
高井野での生活は
わずか5年間であったが領内の総検地、
用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。