2023/11/15
「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 藤堂高虎(東軍 主力)
11月15日
水曜日
「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集
藤堂高虎
(東軍 主力)
(網川 凛)
(画像 左)
藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主、
後に伊勢津藩の初代藩主となる。
津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代。
藤堂高虎は、
黒田孝高、加藤清正と並び、
「築城三名人」の一人と称される。
数多くの築城の縄張りを担当し、
層塔式天守を考案。
高石垣の技術をはじめ、
石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、
その第一人者といっても過言ではない。
また外様大名でありながら
徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する実力を持つ、
異能の武将であったといえる。
慶長5年(1600年)、
家康による会津征伐に従軍し、
その後の河渡川の戦いに参戦する。
9月15日の
関ヶ原本戦では早朝、
大谷吉継を相手に戦闘を行った。
その後、
山中へ転戦して石田三成と戦ったとされる。
また、
留守中の伊予国における
毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している
(毛利輝元の四国出兵)。
更に
近江時代の人脈を大切にし脇坂安治や小川祐忠、
朽木元綱、赤座直保らに対して、
東軍への内応工作を行っている。
戦の終結後、
脇坂安治は東軍との仲介に感謝して
高虎へ貞秀の太刀を送っている。
戦後、
これらの軍功により家康からは
それまでの宇和島城8万石の安堵の他、
新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。
これにより、
高虎は新たな居城を今治城に定めて改築を行い、
宇和島城には
高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた。
天正年間の天守は望楼型天守が主流であったが、
構造上無理があることから、
不安定で風や地震に弱く、
必ず屋根裏の階ができるため使い勝手が悪かった。
今治城では新たに層塔型天守を創建した。
これは矩形の天守台を造成し、
その上に規格化された部材を用いて
全体を組み上げたもので、
構造的な欠陥が解消されるばかりか、
各階別に作事が可能なことから工期も短縮できた。
以後、
高虎がこの様式を江戸城をはじめとする
城郭普請に採用したことで、
高虎の新型天守は
近世における天守建築の主流となった。
その後、
高虎は徳川家の重臣として仕え、
江戸城改築などにも功を挙げたため、
慶長13年(1608年)に
伊賀上野藩主・筒井定次の改易と
伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で
今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、
伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で
計22万石に加増移封され、津藩主となる。
今治城は
高虎の養子であった藤堂高吉を城代として治めさせた。
この伊賀国における筒井氏から藤堂氏への交代は、
家康の対豊臣策の一環として理解するのが妥当で、
豊臣恩顧大名でありながら、
家康の側近ともいえる高虎に伊賀を与えたことは、
大坂方を刺激することなく、
しかも確実に徳川方勢力を上方方面に食い込ませる
家康の戦略によるものであった。
慶長19年(1614年)からの
大坂冬の陣では徳川方として参加する。
翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、
自ら河内方面の先鋒を志願して、
八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う
(八尾の戦い)。
この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、
一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、
600人余りの死傷者を出している。
戦後、
その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡
・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、
同年閏6月には従四位下に昇任した。
しかし、
この戦いで独断専行を行った家臣の渡辺了と衝突、
決別している。
家康死去の際には枕元に侍ることを許され、
家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えた。
元和3年(1617年)
新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、
弟正高が下総国で拝領していた3000石を津藩領に編入し、これで津藩の石高は計32万3000石となった。
なお、
田丸5万石は元和5年(1619年)に
和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地として
大和国と山城国に5万石が与えられた。
元和6年(1620年)に
秀忠の五女・和子が入内する際には
自ら志願して露払い役を務め、
宮中の和子入内反対派公家の前で
「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり
御所で切腹する」と言い放ち、
強引な手段で押し切ったという(およつ御寮人事件)。
寛永4年(1627年)には
自分の敷地内に上野東照宮を建立している。
一方で内政にも取り組み、
上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、
寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。
また、
幕府の命令で陸奥会津藩と讃岐高松藩、
肥後熊本藩の後見を務め、
家臣を派遣して藩政を執り行った。
寛永7年(1630年)10月5日に
江戸の藤堂藩邸にて死去。
享年74。
戒名は「寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都」。
天海僧正は
「寒風に立ち向かう松の木」の意味をもって、
寒松院と命名した。
後を長男の高次が継いだ。
養子の高吉は高次の家臣として仕え、
後に伊賀名張に転封、分家を興した(名張藤堂家)。
墓は
東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。
また、
三重県津市の高山神社に祀られている。
屋敷は
東京都千代田区神田和泉町他にあった
(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。
2023/11/14
アンチエイジングの日
11月14日
火曜日
アンチエイジングの日
NPO法人アンチエイジングネットワークが
2007年(平成19年)に制定。
「いい(11)年(14)」の語呂合せ。
この頃から
アンチエイジングって
言い出した訳ですね。
2023/11/14
「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 黒田長政(東軍 主力)
11月14日
火曜日
「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集
黒田長政
(東軍 主力)
(阿部進之介)
黒田 長政(くろだ ながまさ)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
筑前国福岡藩初代藩主。
戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。
九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。
特に関ヶ原の戦いでは
東軍につき一番の功労者として称えられ、
徳川家康より筑前国名島に
52万3千余石の封を受け、
福岡藩を立藩し初代藩主となった。
長政も父の孝高と同じく
キリシタン大名であったが棄教した。
慶長5年(1600年)、
家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと
家康に従って出陣し、
出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、
長政も東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。
まず、
去就に迷う武将らと交渉し、
福島正則といった大名を東軍につけた。
本戦では石田三成本陣と激戦の最中、
長政家臣・菅正利率いる鉄砲隊が側面から鉄砲で攻撃。
三成の家老・島清興を討ち取る功績を挙げた。
さらに父・如水譲りの調略においても
親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、
西軍の小早川秀秋や吉川広家など
諸将の寝返りの工作を行った。
それらの戦功により戦後、
家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、
関ヶ原の戦い一番の功労者として
子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、
筑前国名島に52万3,000余石を与えられた。
慶長6年(1601年)、
豊前国より筑前国に入府。
海外貿易の大湊、博多大津(三津七湊)を要する筑前は
古来より町人や禅僧の力が強い地であり、
長政や家臣達は威力を示すために武装して入部した。
これを『筑前お討ち入り』といった。
当初入城した小早川氏の居城であった名島城は
手狭で簡素な城であり、
太守としては不便な土地であったことから、
父・如水とともに新たな城を築城する。
堺と並ぶ商人の街・博多の那珂川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎といったその地を、
黒田氏ゆかりの備前国の故地からとって福岡と名付け、
同年に着工し、
慶長11年(1606年)に福岡城は7年あまりで全体が完成。
長政は初代福岡藩主となる。
慶長17年(1612年)、
嫡男の黒田忠之とともに上洛し、
忠之は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠から
松平の名字を与えられる。
慶長19年(1614年)、
大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、
代理として忠之を出陣させる。
徳川方によって長政の交流関係が調査され、
徳川氏に対して繰り返し起請文を提出させられた。
慶長20年(1615年)、
大坂夏の陣では秀忠に属して加藤嘉明とともに陣を張り、豊臣方と戦った。
長政は藩主となって以降、
数々の産業を奨励し博多人形や博多織、高取焼など
伝統工芸の復興に力を入れ、
現在に至るまで福岡の名産品となっている。
元和9年8月4日(1623年8月29日)、
長政は京都における
黒田家の位牌寺・報恩寺の客殿寝所にて、
56歳の生涯を終えた。
徳川家光の三代将軍宣下の先遣として、
早くに上洛していたが、
既に病にかかっていた状態であった。
辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、
今こそ帰れあんらくの空」。
跡を長男の忠之が継いだ。
生前の長政は、
忠之の器量を心配して廃嫡を考えたこともあったが、
重臣の栗山利章(大膳)にも諌められ、
思いとどまった。
そして利章に忠之の補佐を託して
亡くなった長政だったが、
後に忠之と利章が対立する
お家騒動が勃発することになった(黒田騒動)。