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2023/11/17

週末立ち飲み 木下酒店

11月17日
金曜日

週末立ち飲み
木下酒店

ずいぶん久しぶりに
M重工を退職された
県工機械科(高校)の7年先輩
Tさんにお会いしました。

来年の機械科会
(年次関係なく機械科全体の同窓会)
(湊川神社会館)に
絶対に来いよ‼️と言われました。

スーパードライ小瓶
黒糖焼酎れんとお湯割4杯

レンコンのはさみ揚げ
ネギトロ
ピリ辛イカ姿フライ

週末立ち飲み  木下酒店

2023/11/16

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 加藤清正(東軍 出陣を謹慎)

11月16日
木曜日

「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集

加藤清正
(東軍 出陣を謹慎)
(淵上泰史)

加藤 清正(かとう きよまさ)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

肥後熊本藩初代藩主。

慶長5年(1600年)、
清正は大坂に入り、2月13日に有馬則頼と会い
(『鹿苑日記』)、
その前後には家康とも対面しているようであるが、
家康の怒りは収まらず、
清正には会津征伐参加を許さず、
国元に留まるように命じている。

同年9月の
関ヶ原の戦いの際に
清正が領国である肥後にいたのは、
家康によって事実上の謹慎を命じられていたためである。

また、
家康の会津征伐の発動に清正が強硬に反対したが、
家康は同意せずに清正に対して立腹したとされている。

こうした事情から
関ヶ原の戦い当初は家康と疎遠となった
清正が西軍につく事態も想定され、
毛利輝元らによる説得工作が行われた。

だが、
清正は家康に懇願して大坂にいた家臣を
会津征伐に出陣する家康の下に派遣しており、
石田三成らの挙兵を知った家康は
その家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。

その間にも
清正は黒田如水と連絡を取って
家康ら東軍に協力する約束を交わし、
家康の書状を携えた家臣が
帰国した8月後半から黒田軍とともに出陣、
小西行長の宇土城、
立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、
九州の西軍勢力を次々と破った。

戦後の論功行賞で、
小西旧領の肥後南半を与えられ、
52万石(実質石高は79万石)の大名となる。

関ヶ原の戦い一年余の後に、
替地充行状が多発されるようになり、
戦時色を払拭し恒常的、安定的な領国体制の再編に向けて動き出していたことが窺える。

また、
江戸幕府の成立後、
豊臣氏がかつて日本各地に設置した
蔵入地は解体される傾向にあったが、
清正が統治する肥後国の蔵入地は依然として残されて
年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていた模様で、
清正の死の翌年に毛利氏が
清正死後の熊本藩を内偵した記録である
『肥後熊本世間取沙汰聞書』によれば
同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が
設置されたままであることが記されている。

慶長8年(1603年)、
豊臣姓を下賜されている。

慶長10年(1605年)、
従五位上・侍従兼肥後守に叙任される。

慶長11年(1606年)、
徳川四天王の一人
榊原康政の嫡男・康勝に娘のあまを嫁がせた。

だが、
この年に康政が急死して康勝が館林藩を継いだため、
清正がその後見人として藩政をみた。

また、
江戸幕府の成立後、
豊臣氏がかつて日本各地に設置した蔵入地は
解体される傾向にあったが、
清正が統治する肥後国の蔵入地は依然として残されて
年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていた模様で、
清正の死の翌年に毛利氏が
清正死後の熊本藩を内偵した記録である
『肥後熊本世間取沙汰聞書』によれば
同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が
設置されたままであることが記されている。

一方、
熊本藩内では熊本城と麦島城の改築、
旧加藤・小西両領の境界地帯を中心とした
支城の廃止などが行われ、
最終的には熊本城と7つの支城に整理された。

慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張名古屋城の普請に協力した。

慶長16年(1611年)3月、
二条城における家康と豊臣秀頼との会見を
取り持つなど和解を斡旋した。

しかし、
ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、
既に次女・八十姫との婚約が成立していた
家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、
徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。

その一方で、
清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの
見送りに随行しており、
家康としても徳川・豊臣の和解のために
清正の役割に期待する側面もあったとみられる。

帰国途中の船内で発病し、
6月24日に熊本で死去した。

享年50(満49歳没)。

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集  加藤清正(東軍 出陣を謹慎)

2023/11/15

かまぼこの日

11月15日
水曜日

かまぼこの日

全国蒲鉾水産加工業協同組合連合会が
1983年(昭和58年)に制定。

蒲鉾が初めて文献に登場したのが
永久3年(1115年)の祝宴の膳の図に
描かれていたものとされていることから、

1115年の数字の並びから
11月15日を記念日とした。

七五三に際して
子供の成長を祈って
紅白のかまぼこを供したことも理由としている。

かまぼこの日