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2023/05/29

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 大岡弥四郎(謀反人)

5月29日
月曜日

「どうする家康」徳川家康家臣団

大岡弥四郎(謀反人)

大岡弥四郎
(毎熊克哉)

大岡弥四郎事件が勃発したのは、
天正3年(1575)のことであるが、
事件を詳しく伝えるのは
『三河物語』などの二次史料だけである。

それは大岡弥四郎自身の事蹟についても同じである。

 大岡弥四郎は
中間(ちゅうげん:下層の侍)だったと言われ、
徳川家康の馬丁(馬を引く職務)として仕えたという。

いつの頃からか、
弥四郎は行政手腕を評価され、
松平信康のもとで岡崎城下の町奉行として
重用されることになった。

ことの発端は天正2年(1574)、
弥四郎が松平新右衛門らと結託し、
武田勝頼に内通しようとしたことである。

当時、
徳川氏は武田氏と敵対していたが、
弥四郎は勝頼の三河侵攻を手助けしようとしたのだ。

背景には、
弥四郎の発言権が増していたからとの指摘がある。

その計画とは、
弥四郎が家康が岡崎城を来訪したと
虚偽の情報を流して開門させ、
侵攻してきた武田軍を城内に導くことだった。

そして、
城主の信康を自害に追い込み、
城内の家臣らを武田氏に服属させる。

そのうえで、
家康やその家臣を討ち取るというものだった。

鳥居氏の家臣・山田重英は、
弥四郎の誘いに乗ろうとしたが、
考え直して信康に事の次第を通報した。

また、
家康は弥四郎の謀反を察知しており、
あらかじめ調査を行っていたと伝わっている。

計画は、バレバレだったようだ。

弥四郎の謀反は、
武田氏の歩き巫女によって広く伝わっており、
築山殿の耳にも入っていた。

築山殿は信康を取り立てることを条件として、
武田氏に与同しようとした。

それにしても、
情報が筒抜けならば、あまりに稚拙な計画である。

結局、
計画は事前に察知されていたので、
ただちに弥四郎は捕縛された。

弥四郎は岡崎城下と浜松城下を引き回しにされた上、
鋸挽きという残酷な刑に処せられたのである。

弥四郎の妻子は磔刑に処せられた。

天正7年(1579)、
武田氏に通じたとされる信康と築山殿は、
家康によって葬り去られた。

大岡弥四郎事件は、
その伏線だったと言われているが、
必ずしも事件の概要を示す史料の内容が一致せず、
謎が多い事件である。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  大岡弥四郎(謀反人)

2023/05/29

備中高松城の戦い

5月29日
月曜日

備中高松城の戦い

1582年5月29日(天正10年5月8日)

豊臣秀吉が、
水攻めのため
備中高松城を包囲する堤防の建設を開始。

12日間で完成。

備中高松城の戦い
(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、
日本の戦国時代におきた戦い。

天正10年(1582年)に
織田信長の命を受けた
家臣の羽柴秀吉が
毛利氏配下の清水宗治の守備する
備中国高松城を攻略した戦いである。

秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、
高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。

水攻めの最中に
主君である織田信長が
明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。

その報を聞いた秀吉は
ただちに毛利方と和睦を結んで、
城主清水宗治の切腹を見届けた後、

明智光秀を討つために
軍を姫路へ引き返した。

羽柴秀吉は
清水宗治が
城内の安堵と引き換えに
潔い見事な切腹をした事に対して

武士の鏡!宗治あっぱれ!
と讃えたとの事でした。

備中高松城の戦い

2023/05/28

お好み焼き・鉄板焼さんぺい

5月28日
日曜日

西神戸センター街
お好み焼き・鉄板焼さんぺい

スーパードライ中瓶
ブラックニッカハイボール3杯

キムチ冷奴半分
ゲソ塩焼き
とんぺい焼き
スジ焼き飯
味噌汁サービス

お好み焼き・鉄板焼さんぺい