2023/12/20
シーラカンスの日
12月20日
水曜日
シーラカンスの日
1952年12月20日
コモロ諸島のアンジュアン島で
シーラカンスが捕獲され、
学術調査が行われたことに由来する。
最初の標本は
1938年12月22日に
南アフリカ共和国で確認されていたが、
腐敗のため、
充分な調査ができなかった。
2023/12/19
日本初飛行の日
12月19日
火曜日
日本初飛行の日
1910年12月19日
東京の代々木錬兵場(現在の代々木公園)で
徳川好敏工兵大尉が日本初の飛行に
公式に成功したことに由来。
実際には
5日前の12月14日に
日野熊蔵大尉が飛行に成功していたが、
公式の飛行実施予定日ではなかった、
などの理由で「滑走の余勢で誤って離陸」であり、
飛行ではないとされた。
また、
日野大尉は19日にも飛行に成功しているが、
離陸順が徳川が先とされたため、
徳川大尉が日本初、とされている。
2023/12/19
「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 春日局(徳川家光の乳母)
12月19日
火曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
春日局(かすがのつぼね)
(徳川家光の乳母)
(寺島しのぶ)
春日局/斎藤福
(かすが の つぼね/さいとう ふく)
天正7年〈1579年〉~
寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)
安土桃山時代から江戸時代前期の
江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。
「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
父は美濃国の名族
斎藤氏(美濃守護代)の一族で
明智光秀の重臣であった斎藤利三、
母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、
又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、
養父は稲葉重通。
稲葉正成の妻で、正勝・正定・正利の母。
養子に堀田正俊。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、
松平信綱・柳生宗矩と共に
家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
また、
朝廷との交渉の前面に立つ等、
徳川政権の安定化に寄与した。
福は、将軍家の乳母へあがるため、
夫の正成と離婚する形をとった。
慶長9年(1604年)
2代将軍・徳川秀忠の嫡子
・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。
このとき選考にあたり、
福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。
息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、
元和9年(1623年)に老中に就任、
寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。
家光の将軍就任に伴い、
「将軍様御局」として大御台所・お江与の方の下で
大奥の公務を取り仕切るようになる。
寛永3年(1626年)のお江与の没後からは、
家光の側室探しに尽力し、
伊勢慶光院の院主であったお万や、お蘭(お楽の方)、
お振、お夏、お玉、お里佐、おまさなどを
次々と奥入りさせた。
また、大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど、
大奥を構造的に整備した。
将軍の権威を背景に
老中をも上回る実質的な権力を握る。
寛永6年(1629年)には、
家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、
そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。
しかし無位無官の武家の娘という身分のままでは
御所に昇殿するための資格を欠くため、
血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、
育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、
既に他界していたため、
やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組をし、
公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、
三条西 藤原福子として同年10月10日、
後水尾天皇や中宮和子に拝謁、
従三位の位階と「春日局」の名号、
及び天酌御盃をも賜る。
その後、
寛永9年(1632年)7月20日の
再上洛の際に従二位に昇叙し、
緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。
よって二位局とも称され、
同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となる。
寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、
幼少の孫正則を養育、
後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。
寛永12年(1635年)には
家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。
寛永20年(1643年)9月14日に死去、
享年64。
辞世の句は
「西に入る 月を誘い 法をへて
今日ぞ火宅を逃れけるかな」。
法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。
墓所は東京都文京区の麟祥院、
神奈川県小田原市の紹太寺、
京都市の金戒光明寺および妙心寺の塔頭麟祥院。
死去の直前に当たる9月10日、
家光は稲葉正則の娘(3歳)と堀田正俊の婚約、
正則の妹と酒井忠能の婚約を発表した。
この上意は
新興譜代大名である稲葉氏と堀田氏を
門閥譜代大名の酒井氏と結びつける意図があった。
以後正則・正俊はそれぞれ幕閣に登用され、
老中・大老に就任、幕政に参加した