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2023/06/22

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 久松俊勝

6月22日
木曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

久松俊勝(長家)
(リリー・フランキー)

久松 俊勝(ひさまつ としかつ)は、戦国時代の武将。

尾張国知多郡の坂部城
(阿久比城:愛知県阿久比町卯坂)主。

徳川家康の生母・伝通院の再婚相手として知られる。

本姓は菅原氏。

佐渡守を称した。

桶狭間の戦い後に
松平元康(広忠と伝通院の子、後の徳川家康)に与す、

永禄5年(1562年)
今川氏の重臣・鵜殿長照が守る
三河国宝飯郡西郡の上ノ郷城
(愛知県蒲郡市神ノ郷町)を攻略した。

西郡の領主となった俊勝は、
信俊に阿久比を譲り、上ノ郷城には
於大との間に生まれた次子・康元を置いた。

この時期の発給文書には「長家」の名が見え、
また佐渡守を名乗っていたことがわかる
(永禄8年(1565年)の安楽寺「宗感」宛寄進状など。

「俊勝」への改名は
これ以降と考えられるが、その時期を不明としている。

また、
松平元康は永禄6年(1563年)に「家康」と改名するが、
家康の"家"の字は継父である久松長家より
一字を得たものであったが、
後年大名に成長した家康を憚って
長家の方が「俊勝」と改名。

さらに、
家光以後に徳川将軍家にとり
「家」の通字が重要となり由来を隠したため、
その由来が分からなくなってしまったとする説もある。

後に
織田信長から武田勝頼への内通の疑いをかけられた
水野信元(家康には伯父、俊勝には義兄にあたる)が
家康を頼ってくる。

しかし、
家康は信長の命により同盟を重視して
信元と養子の元茂を岡崎城に呼び出し
切腹により自害させる。

後に事情を知って激怒した俊勝は
そのまま西郡城に隠退してしまった。

晩年には三河一向一揆で追放された
一向宗寺院の三河復帰に尽力したという。

墓所は
阿久比町大字卯坂字英比67番地の洞雲院および
蒲郡市清田町門前4番地の安楽寺。

法名は陽光院殿前佐州華林崇心大居士。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  久松俊勝

2023/06/22

秀吉の中国大返し

6月22日
木曜日

秀吉の中国大返し

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、
天正10年6月(西暦1582年6月~7月)

備中高松城の戦いにあった
羽柴秀吉が
主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、

速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、
主君の仇明智光秀を討つため
京に向けて全軍を取って返した
約10日間にわたる軍団大移動のこと。

備中高松城(岡山県岡山市北区)から
山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの
約230 km を踏破した、
日本史上屈指の大強行軍として知られる。

この行軍の後、
秀吉は摂津・山城国境付近の
山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。

秀吉は
変報が伝わると情報が漏洩しないよう
備前・備中への道を完全に遮断し、

自陣に対しても緘口令を敷いて
毛利側に信長の死を秘して講和を結び、
一刻も早く上洛しようとした。

また、変報が伝わった際に、
黒田孝高は傍らで主君信長の仇を討つよう
進言したという逸話がある。

秀吉は情報を遮断した状況下で
直ちに6月3日の夜のうちに
毛利側から外交僧安国寺恵瓊を自陣に招き、
黒田孝高と交渉させた。

毛利側も、
清水宗治の救援が困難だとの結論に達しつつあり
秀吉との和睦に傾いていており、
変報を知ったのは秀吉が撤退した翌日だった。

この、
本能寺の変を知りえるまでの
情報入手における微かな時間差が
その後の両者の命運を大きく分けたことになる。

行軍は、
秀吉を先頭に2万以上の軍勢が、
一部は後方の毛利軍を牽制しながらなされた。

街道で道幅の狭い箇所では
2間(約3・6メートル)に満たないところもあり、

兵は延々と縦列になって
進まざるをえないことも多かったと考えられる。

これは非常に危険な行軍となったことから、
秀吉自身と物資を輸送するための輜重隊とは、
危険と混乱を回避するために
海路を利用したのではないかという憶測も生まれた。

いずれにしても、
悪天候の中1日で70キロメートルの距離を
走破したこととなり、
これは当時にあって驚異的な速度といってよい。

尚、
6日に全員が姫路に到着したと考える必要はなく、
翌日以降も次々と兵卒が姫路に到着したと
考えるべきではないかとする指摘もある。

本拠地姫路城に到着した秀吉軍は、
6月6日朝まで滞留し、休養をとった。

休養にあてた一日、
秀吉は姫路城の蔵奉行を召集し、
城内に備蓄してあった金銭・米穀の数量を調べさせ、

これらを身分に応じて配下の将兵に
悉く分与したといわれる。

これは、姫路籠城の選択肢はないこと、
目的は光秀討伐以外ないことを鮮明にし、
決死の姿勢を示した上で、

負けても姫路へは帰れないが、
勝てば更なる恩賞も期待できることを示唆しての
処置であったと考えられる。

秀吉の中国大返し

2023/06/21

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 水野信元

6月21日
水曜日
夏至

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

水野信元
(寺島 進)

水野 信元(みずの のぶもと)は、戦国時代の大名。

水野忠政の次男。

実子に先立たれていた信元は
永禄10年(1567年)頃に
家督を養子の水野信政(元茂)に譲る。

この信政の父は、
桶狭間合戦直後に刈谷で討死した信近である。

つまり、緒川水野氏の信元が、
刈谷水野氏の所領を接収するにあたり、
その後継者を養子に迎え、緒川・刈谷両家を
融合させるという形式を整えたと伝わる。

永禄11年(1568年)には、信長の上洛に従軍。

その際に
信長とは別に朝廷に対して2千疋の献金を行った。

元亀元年(1570年)の
姉川の戦いにおいて佐和山城を攻落した。

元亀3年(1572年)の
三方ヶ原の戦いに援軍として参陣した。

信元は篭城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、結果として野戦で敗走し憔悴した家康に代わり指揮。

夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配し、
武田軍を威嚇をして窮地を脱している。

天正2年(1574年)の
長島一向一揆討伐の際には
「しのはせ攻衆」に加わっていた。

なお、同年3月20日、
足利義昭より信元に御内書が遣わされた。

意訳すると
「武田勝頼と協力して信長を討伐せよ。
委細は(室町幕府御供衆)一色藤長が申します」
というものであり、
義昭から家康に遣わされた御内書とほぼ同文であった。

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに参加。

当時の信元の石高は24万石と称される。

天正3年12月(1576年1月)、
信長の武将・佐久間信盛の讒言により
武田勝頼の武将の秋山信友との内通や
兵糧を輸送した疑いで、
信長の命を受けた甥家康によって
三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)において殺害され、
同時に養子の信政も養父とともに斬られた。

墓所は愛知県刈谷市天王町の楞厳寺。

法名は信元院殿大英鑑光大居士。

刺客役を命じられた平岩親吉は、
信元を斬ったのち屍を抱き上げ
「信元どのに私怨はないが、
君命によりやむをえず刃を向け申した」と
涙ながらに詫びたという。

案内役をしていた久松俊勝は
「かかる事とも知らずして、
信元迎え来て打たせたりし事の無慙さよ。
世の人のかえり聞かん事も恥ずかしとて、
徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」と述べて、
出奔してしまう。

夫に出奔された妹の於大の方とその子供たちは、
家康の下に引き取られた。

兄を殺された於大の方は、
石川数正を深く恨み、
これが後の家康嫡男・松平信康と
その母・築山殿粛清や
石川数正の出奔の原因と考える人もいる。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  水野信元