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2023/07/04

自転車屋の生き物歳時記 ヒヨドリ

7月4日
火曜日

自転車屋の生き物歳時記

ヒヨドリ

最近は早朝から
街路樹の上でピーピーと鳥がうるさい!

ウチの前の街路樹では
毎年ヒヨドリが巣作りしてるけど
ヒヨドリの野郎
また雛を育ててるな!

ヒヨドリ
(鵯、白頭鳥、Hypsipetes amaurotis)は、
スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属に分類される鳥類の1種。

日本、サハリン、朝鮮半島南部、台湾、中国南部、
フィリピンの北部(ルソン島)に分布する。

日本国内では留鳥
または漂鳥としてごく普通に見られるが、
他の地域での生息数は少ない。

全長は約27.5 cm (27–29 cm)。

翼開長は約40 cm。

尾は長めで(尾長10.9-12.5 cm)、
ムクドリやツグミより体型はほっそりしている。

くちばしは黒くて先がとがる。

雌雄同色。

頭部から胴体は灰色の羽毛に覆われるが、
頬に褐色の部分があり、よく目立つ。

また、
頭頂部の羽毛は周囲よりやや長く、冠羽となっている。

翼や尾羽は灰褐色をしている。

南に生息する種は、
北に生息する種より体色が濃い(グロージャーの法則)。

里山や公園などある程度樹木のある環境に多く生息し、
都市部でも見られる。

ツグミやムクドリよりも体を直立させてとまり、
おもに樹上で活動するが、地上に降りることもある。

飛ぶときは数回羽ばたくと
翼をたたんで滑空するパターンを繰り返して飛ぶため、
飛ぶ軌道は波型になる。

鳴き声は「ヒーヨ! ヒーヨ!」などと甲高く聞こえ、
和名はこの鳴き声に由来するという説がある。

また、
朝方には「ピッピッピピピ」と
リズムよく鳴くこともある。

日本では周年見られるが、
春および秋には渡りが各地で確認される。

秋には国内暖地へ移動する個体も多く、
10-11月には渡りが日本各地で観察され、
房総半島南端、伊良湖岬のほか、
関門海峡では1,000羽を越えて渡る群れも観察される。

果実や花の蜜を食べる。

繁殖期には果実に加え昆虫類も多く捕食する一方、
非繁殖期の餌は果実
(センダンやイイギリ、カキ、ヘクソカズラなど)が
ほとんどである。

ツバキなどの花の蜜を好む。

早春にはツバキの木の近くにずっと陣取って、
花の蜜を求めて飛来するメジロなどを
追い払う姿をよく見かける。

5-9月にかけて繁殖する。

繁殖期間が比較的長いことについては、
捕食されるなど繁殖の失敗による
再繁殖が多いことが一つとして考えられる。

木の枝上に
外径 12–20 cm の体の大きさに比べると
小型の巣を作る。

高さ1-5mに営巣し、巣は椀形で、
小枝、枯れつる、イネ科の茎、細根、
市街地ではビニールの紐などを使って作られ、
産座には松葉やシュロの繊維、
ササの葉などが粗雑に敷かれる。

1回の繁殖で4個(3-5個[4])の卵を産み、
卵の大きさは約2.95 cm × 2.05 cm
(2.75-3.3 cm × 2.0-2.1 cm) で、
淡いバラ色に赤褐色の斑がある。

おもに雌のみによって12-14日間抱卵され、
孵化した雛は雌雄により育てられる。

雛は10-11日で巣立つが、
多くは巣立って数日のうちは
あまり飛べないため巣の近くにおり、
またその後1-2か月のあいだ親鳥とともに行動する。

日本では里山や公園でよく見られる
身近な野鳥の一つである。

富山県砺波市の市の鳥に指定されている。

糖分を好むためか、
ツバキやサクラやあんずやゴールデン・ベルなどの
花にやってきて蜜を吸ったり、
庭先にミカンやリンゴなど果物の半切れを置いておくと
すぐにやって来て独り占めする。

しかし、
ときに集団で畑に現れキャベツやブロッコリー、
イチゴ、ミカンなどの農作物を食い荒らすこともあり、
農家には嫌われる。

狩猟鳥の指定も、
果樹を食害する農業害鳥である本種を
煩瑣な手続きなしで駆除できるよう配慮したものである。

仔飼いにすると非常によく慣れ、
飼い主を見分けることから
平安時代は貴族の間で盛んに飼われた。

古今著聞集などにその記述があり、
現在の競走馬のように
個体名が付けられ愛玩されたようである。

一ノ谷の戦いで知られる鵯越は
ヒヨドリの渡りの場所だったことから呼ばれていた。

現代では
ひよどりごえ森林公園やひよどり展望公園が
整備されている。

前述のように、
日本国内では都市部を含めごく普通に観察されるが、
分布がほぼ日本国内に限られているため、
日本を訪れる海外のバードウォッチャーにとっては
ぜひ観察したい野鳥のひとつとなっている。

1993年に旭山動物園が、
ヒヨドリの繁殖賞を受賞している。

自転車屋の生き物歳時記  ヒヨドリ

2023/07/04

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 松平信康(徳川家康の嫡男)

7月4日
火曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

松平信康
(徳川家康の嫡男)
(細田佳央太)

松平信康(まつだいら のぶやす)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

徳川家康の長男(嫡男)。

母は関口親永(瀬名義広)の娘で
今川義元の姪・築山殿。

また、
後に安祥松平家の居城の岡崎城主
(愛知県岡崎市)を務めたため、
祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った。

永禄2年(1559年)3月6日、
松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として
駿府で生まれる。

今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、
桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった
鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。

永禄5年(1562年)、
家康と織田信長による清洲同盟が成立する。

永禄10年(1567年)5月、
信長の娘である徳姫と結婚し、
共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。

同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、
岡崎城を譲られた。

7月に元服して
信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。

元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。

天正元年(1573年)に、
足助城攻めで初陣を飾り、その後、武節城を攻めた。

天正2年(1574年)に
信康に付属された松平親宅が何度も諫言するも
聞き入れなかったとして、
役目を返上して蟄居・出家する(『松平甚助由緒書』)。

なお、
『寛政譜』では役目返上は故ありとして
時期は天正3年、
出家を後述の信康切腹を悲嘆してとするが、
この場合も役目返上の理由は
諫言を聞き入れないためとされる。

天正3年(1575年)5月の
長篠の戦いでは17歳で、
徳川軍の一手の大将として参加した。

その後も武田氏との戦いでいくつかの軍功を挙げ、
勇猛さが注目された。

特に天正5年(1577年)8月の
遠江国横須賀の戦いで退却時に殿を務め、
武田軍に大井川を越させなかったという。

天正6年(1578年)3月には
小山城攻めに参軍し、
退却時に殿を務め、活躍している。

天正7年(1579年)8月3日、
家康が岡崎城を訪れた翌日
信康は岡崎城を出ることになり、
大浜城に移された(『家忠日記』)。

その後、
信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、
9月15日に家康の命により切腹させられた。

享年21(満20歳没)。

信康の首は舅である信長の元に送られ、
その後、若宮八幡宮に葬られた。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  松平信康(徳川家康の嫡男)

2023/07/04

湊川の戦い

7月4日
火曜日

湊川の戦い

1336年7月4日
(建武3年5月25日)

湊川の戦いが行われる。

湊川の戦い
(みなとがわのたたかい)は、
南北朝時代の延元元年/建武3年5月25日
(1336年7月4日)に、

摂津国湊川
(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、
九州から東上して来た
足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、
これを迎え撃った後醍醐天皇方の
新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。

25日の辰刻(午前8時頃)、
海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、
新田・楠木連合軍と対峙した。

他方、
陸からも足利直義を司令官とする
陸上軍主力の大軍が西国街道を進行し、
接近しつつあった。

海からの大船団を
『太平記』は
「呉と魏が天下を争った赤壁の戦いを凌ぐ」
とさえ述べているが、

義貞も正成も足利方の大軍に対して
少しもひるむことはなかったという。

水軍を用意できなかった新田軍は、
脇屋義助を将に一族23人、総勢5千余騎を経島に、
大館氏明を将に一族16人、総勢3千人を
灯炉堂の南の浜にそれぞれ布陣させ、
陸地からの敵に備えさせた。

義貞自身は総大将であり、
諸将への軍令を出すため、
和田岬に2万5千の兵で布陣した。

一方、楠木軍は他家の軍勢を入れず、
700余騎で湊川西の宿
(湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山)に布陣し、
陸地から攻めてくる敵に備えていた。

この義貞の陣立ては、
「不思議な陣立て」であったと言われる。

義貞は南から上陸してくる
足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、
北に陣取った
楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、

東西南の三方向が
海に面している和田岬が
足利軍に完全に包囲され
退路をふさがれてしまう形になる。

義貞はあえて「背水の陣」を強いて、
配下に決死の覚悟で
合戦に挑むよう促したと推測される。

湊川の戦い