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2024/02/27

ドラマ大奥 主要登場人物 松平定信

2月27日
火曜日

ドラマ大奥
主要登場人物

松平定信
(徳川幕府老中首座)
(第8代将軍吉宗の孫)
(宮舘涼太)

松平 定信(まつだいら さだのぶ)
宝暦8年12月27日〈1759年1月25日〉
~文政12年5月13日〈1829年6月14日〉)

江戸時代中期の大名、老中。

陸奥国白河藩の第3代藩主。

定綱系久松松平家9代当主。

江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。

老中であった
1787年から1793年まで寛政の改革を行った。

定信は
前任の田沼意次の政策を
ことごとく覆したとされているが、
近年では、
寛政の改革による政治は、
田沼時代のものと連続面があるとの指摘もされている。

天明の大飢饉における
藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、
天明6年(1786年)に
家治が死去して家斉の代となり、
田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、
徳川御三家の推挙を受けて、
少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで
老中首座・将軍輔佐となる。

そして
天明の打ちこわしを機に幕閣から
旧田沼系を一掃粛清し、
祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、
幕政再建を目指した。

老中職には
譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。

確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、
定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。

家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は
親藩には列せられず、
家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、
原則として譜代大名とされる。

しかし、
定信は吉宗の孫だったため、
譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。

改革直前の状況を見てみると、
田沼意次の政治により武士の世界は
金とコネによる出世が跳梁しており、
農村では貧富の差が激しくなり
没落する貧農が続出していた。

手余地・荒地が広がり、
天明年間に続出した飢饉にて離村した農民は
都市に大量に流入し社会秩序を崩壊させた。

寛政の改革は
このような諸問題の解決に向け
綱紀粛正、財政再建、農村復興、民衆蜂起の再発防止などといった問題に立ち向かっていった。

田沼が発布した
天明三年からの七年間の倹約令を継続し、
財政の緊縮を徹底し、諸役人の統制を行った。

文政12年(1829年)
1月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を発した。

3月21日には
神田佐久間町河岸から出火し、
火が日本橋から芝まで広がり、
多数の建物が焼失し2800余人の焼死者が出たが、
松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、
さらに中屋敷も類焼したため、
定信は避難する事となるが、
避難する際に定信は屋根と簾が付いた
大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送されたため、
道が塞がって民衆が迷惑したという。

さらにこの時、
松平家の家人が邪魔な町人を
斬り殺したという噂が世上に流布した。

この時の大火に関する落首や落書があり、
「越中(定信)が、抜身で逃る、其跡へ、
かはをかぶつて、逃る越前
(福井藩のことで、福井藩にも町人を
斬り殺した噂が流布していた)」
「ふんどしと、かはかぶりが、大かぶり」と
無届の一枚刷りによって多数刊行された。

これは寛政の改革の際に
出版統制を行った定信に対する
業界の復讐であったとされる。

屋敷の焼失により、
定信は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、
手狭のため
4月18日に松山藩の三田の中屋敷に移った。

この仮屋敷の中で
病床にあった定信は家臣らと歌会を開き、
嫡子の定永と藩政に関して語り合った。

一時は回復の兆しも見せたが、
5月13日の八つ時(午後2時)頃から呻き声をあげ始め、
七つ時頃(申の刻、午後4時)に医師が診察する中で、
急に脈拍が変わり、死去した。

享年72 (満70歳没)。

辞世は
「今更に何かうらみむうき事も
楽しき事も見はてつる身は」。

墓地は東京都江東区白河の霊巌寺にある。

ドラマ大奥 主要登場人物  松平定信

2024/02/27

冬の恋人の日

2月27日
火曜日

冬の恋人の日

2月14日のバレンタインデーと
3月14日のホワイトデーの間に
「恋人同士の絆を深める日」を設けようと、
結婚カウンセラーなどが制定した日。

絆の「ずな」→「づな」→
「ツー・ナナ」→「27」の語呂あわせから、
2月27日が選ばれた。

何じゃそりゃ!?
結婚カウンセラーの
自己満足みたいな記念日やね!?

冬の恋人の日

2024/02/26

感臨丸の日

2月26日
月曜日

咸臨丸の日

万延元年旧暦2月26日
(1860年3月18日)

幕府が派遣した使節団が、
咸臨丸による37日間の太平洋横断航海を終えて
サンフランシスコに到着した。

江戸時代の日本人は
当時のサンフランシスコには
あらゆる事に対して
きっと驚愕したんでしょうね。

感臨丸の日