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2023/08/29

和銅開珎(わどうかいちん)

8月29日
火曜日

和銅開珎

708年8月29日
(和銅元年8月10日)

日本初の銅銭「和同開珎」を発行。

和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)は、
708年8月29日(和銅元年8月10日)に、
日本で鋳造・発行された銭貨である。

日本で最初の流通貨幣と言われる。

皇朝十二銭の1番目にあたる。

直径24mm前後の円形で、
中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている
円形方孔の形式である。

表面には、
時計回りに和同開珎と表記されている。

裏は無紋である。

形式は、
621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、
書体も同じである。

律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。

当初は1文で米2kgが買えたと言われ、
また新成人1日分の労働力に相当したとされる。

現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、
和銅(にきあかがね、
純度が高く精錬を必要としない自然銅)が
産出した事を記念して、
「和銅」に改元するとともに、
和同開珎が作られたとされる。

ただし、
銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、
和同開珎発行はその数年前から計画されており、
和銅発見は
貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある。

唐に倣う目的もあった。

708年5月には銀銭が発行され、
7月には銅銭の鋳造が始まり、
8月に発行されたことが続日本紀に記されている。

銀銭が先行して発行した背景には
当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して
私鋳の無文銀銭を
公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が
必要であったからと言われている。

しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。

和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、
薄手で精密な「新和同」があり、
新和同は銅銭しか見つかっていないことから、
銀銭廃止後に発行されたと考えられる。

古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、
和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭
または試作品であるとする説がある。

古和同と新和同は成分が異なり、
古和同はほぼ純銅である。

また両者は書体も異なる。

古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、
新和同は大量に流通し、出土数も多い。

ただし、
現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には
贋作が多いので注意を要する。

当時の日本は
まだ米や布を基準とした物々交換の段階であり、
和同開珎は、
貨幣としては畿内とその周辺を除いて
あまり流通しなかったとされる。

また、銅鉱一つ発見されただけで
元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた
当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、
流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。

更に地方財政(国衙財政)が
一貫して穎稲を基本として組まれていることから、
律令国家は農本思想の観点から
通貨の流通を都と畿内に限定して
地方に流れた通貨は
中央へ回収させる方針であったとする説もある。

それでも地方では、
富と権力を象徴する宝物として使われた。

発見地は全国各地に及んでおり、
渤海の遺跡など、
海外からも和同開珎が発見されている。

発行はしたものの、
通貨というものになじみのない
当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、
政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、
地方から税を納めに来た旅人に
旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、
711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布された。

これは、
従六位以下のものが十貫(1万枚)以上
蓄銭した場合には
位を1階、二十貫以上の場合には
2階進めるというものである。

しかし、
流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、
蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、
800年(延暦19年)に廃止された。

政府が定めた価値が
地金の価値に比べて非常に高かったため、
発行当初から、
民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や
貨幣価値の下落が起きた。

これに対し律令政府は、
蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、
首謀者は死罪 、従犯者は没官、家族は流罪とした。

しかし、
私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。

760年(天平宝字4年)には万年通宝が発行され、
和同開珎10枚と
万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。

しかし、
形も重量もほぼ同じ銭貨を
極端に異なる価値として位置づけたため、
借金の返済時などの混乱が続いた。

神功開宝発行の後、
779年(宝亀10年)に
和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、
同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。

その後、
延暦15年(796年)に4年後をめどに
和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭の流通を
停止する詔が出されたものの、
実際に停止できたのは
大同2年(807年)のことであり、
それも翌年には取り消された。

また、
延暦15年の詔では全ての貨幣を
隆平永宝に統一する方針が出され、
そのための材料として回収された3銭が鋳潰された。

和同開珎が流通から姿を消したのは
9世紀半ばと推定されている。

和銅開珎(わどうかいちん)

2023/08/28

民放テレビスタートの日

8月28日
月曜日

民放テレビスタートの日

1953年(昭和28年)8月28日
午前11時20分

日本初の民放テレビ局
・日本テレビが
本放送を開始したことに由来。

民放テレビスタートの日

2023/08/28

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 石川数正

8月28日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

石川数正(いしかわかずまさ)

石川 数正(いしかわ かずまさ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名

徳川家康の片腕として
酒井忠次とともに活躍したが、
小牧・長久手の戦いの後に
出奔して豊臣秀吉に臣従した。

徳川家康が
駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から
近侍として仕えた。

永禄3年(1560年)、
義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し
松平元康(家康)が独立すると、
数正は今川氏真と交渉し、
当時今川氏の人質であった
家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻した。

永禄4年(1561年)、
家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、
先鋒を務めて活躍した。

永禄5年(1562年)、
織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。

永禄6年(1563年)、
三河一向一揆が起こると、
父・康正は家康を裏切ったとみられるが、
数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。

石川宗家の家督は
叔父の石川家成が家康の命で継いだが、
これは家成が家康の従兄にあたるためでもある。

しかし、
家康に近習していたこともあり、
戦後に家康から家老に任じられ、
酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになった。

信康が元服するとその後見人となった。

永禄12年(1569年)には、
西三河の旗頭であった叔父の家成が
遠州東部の要である掛川に転出すると、
代わって西三河の旗頭となった。

また、
軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、
天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、
多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。

天正7年(1579年)に
信康が切腹すると、岡崎城代となる。

天正10年(1582年)に織田信長が死去し、
その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、
数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。

このため
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。

この戦いにおいて
家康に秀吉との和睦を提言したとされる。

天正13年(1585年)3月までに
数正は康輝(やすてる)と改名しており、
以降短期間であるが
「康輝」名義の文書を発給している。



深志城主10万石となり、
信濃松本藩の初代藩主とみなすことが
通説となっている。

家系は
河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が
河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の
石川荘を相伝し、
義時の三男の義基が石川源氏・石川氏と称し、
後に三河国に下った石川氏の与党と自称した。

天文2年(1533年)、
石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として
三河国で誕生した。

石川清兼は祖父、石川家成は叔父、
石川康通は従弟にあたる。

ところが、
天正13年(1585年)11月13日、
家康の下から秀吉の下へ出奔した。

理由は
「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉から帰順を説得された」などとされるが、
はっきりした理由は分かっていない。

数正は
三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、
この出奔は痛手であった。

以後、
三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。

その後、
秀吉から河内国内で8万石を与えられ、
秀吉の家臣として仕えた。

この時、
通称を出雲守に改め、
秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、
出雲守吉輝を称したと伝わる。

天正18年(1590年)の
小田原征伐で後北条氏が滅亡し、
家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本
(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封された。

松本の石高に関しては
従来の8万石、10万石の2説がある。

数正は
松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、
街道につないで流通機構の経路を掌握するための
城下町の建設、天守閣の造営など
政治基盤の整備に尽力した。

文禄2年(1593年)、死去。

享年60(数え年61)。

しかし没年には異説もあり、
文禄元年(1592年)12月に
京都の七条河原で葬礼が行われているため
(『言経卿記』)、
それ以前に死去の説もある。

肥前の国の陣中で亡くなった。

家督は長男の康長が継いだが、
遺領10万石のうち、
康長は8万石、二男の康勝は1万5,000石、
三男の康次は5,000石を
それぞれ分割相続する事となった。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  石川数正