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2023/10/20

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 鳥居忠吉

10月20日
金曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

鳥居忠吉
(イッセー尾形)

鳥居 忠吉(とりい ただよし)は、
戦国時代の武将。

三河松平氏(徳川氏)の家臣。

三河碧海郡渡城主。

鳥居忠明の子として誕生。

生年は不明だが、
死去した時に80余歳と伝えられているため、
文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定される。

三河国の戦国大名・松平清康に仕えた。

忠吉以前の当主が
松平氏に仕えていた事が確認できないため、
松平清康が岡崎城に進出したのを機に仕えた
「岡崎譜代」と呼ばれる家臣層であったと
推定されている。

松平宗家は、
清康の死後は分家の桜井松平家当主・松平信定に
対抗できないほど弱体化し、
駿河国の名門・今川氏の傘下に入って命脈を保つ。

ところが、
天文18年(1549年)に清康の子で
主君・広忠が死去したため、
その後は新たな幼主・竹千代(後の徳川家康)の身柄が
駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。

この間、
岡崎の治世は今川氏から派遣された
城代による統治よりも、
忠吉と阿部定吉らとの実務によって成り立っていた。

だが、
収穫などの富は今川氏への分配が多く、
松平党は日々の暮らしにも困窮する。

そんな僅かになった収穫であっても、
家康が帰参するであろう将来に備えて
倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られる。

阿部が死去すると忠吉の下に、
松平家臣団は一段と結束する。

貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、
命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。

その忠誠心は後世まで
「三河武士」として名声を高めるが、
当時の彼らの姿勢や意識は、
家康を想う忠吉によって植えつけられた。

永禄3年(1560年)、
桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、
大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った
若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、
「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と
家康に感謝されたという。

その後は高齢を理由に岡崎城の留守を守った。

忠吉が忠義の老臣であることは朝廷にも知られており、
永禄11年(1569年)11月に開かれた
後奈良天皇の十三回忌に際して
朝廷に献金を行った家康に対して
正親町天皇が賞された際に、
山科言継がその事を特に鳥居伊賀入道(忠吉)へ
書状にて知らせたことが『言継卿記』に記されている。

元亀3年(1572年)に死去。

長男・忠宗は
天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、
次男・本翁意伯は出家していたため、
三男・元忠が家督を相続した。

墓所は、
次男・本翁意伯が住職となっていた
不退院(愛知県西尾市)。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  鳥居忠吉

2023/10/19

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 平岩親吉

10月19日
木曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

平岩親吉
(岡部 大)

平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。

徳川氏の家臣。

上野国厩橋藩(前橋藩)、尾張国犬山藩主。

官位は従五位下・主計頭。

徳川十六神将の一人に数えられる。

『三河後風土記』の著者というが、
著者不詳ともされはっきりしない。

天文11年(1542年)、
平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村
(現在の愛知県額田郡幸田町坂崎)にて誕生。

徳川家康と同年であったことから、
今川義元の人質時代から家康に付き従った。

天文16年(1547年)、
小姓として駿府に送られた。

永禄元年(1558年)に初陣する。

家康の信任は厚く、
三河統一戦や遠江平定戦などで戦功があり、
家康の嫡男・松平信康が元服すると、
その傅役として信康を補佐した。

しかし
天正7年(1579年)、
織田信長により信康の切腹が家康に要求されると、
親吉は責任を自分が被り、
自らの首を信長に差し出すことを求めた。

しかし信康の処断を防ぐことはできず、
その責任を感じて蟄居謹慎する。

後に家康に許され、再び直臣として復帰した。

だが、
信康切腹が信長の命令によるものという
通説には疑問点も多く、
近年では家康と信康の対立が原因とする説が
出されている。

天正4年12月(1576年1月)、
信長の命を受けた家康の命を受けて、
三河大樹寺にて、
家康の母方の伯父・水野信元父子を誅殺している。

天正10年(1582年)、
本能寺の変で信長が横死すると、
家康は天正11年(1583年)までに甲斐国を平定し、
親吉は家康の命令で甲府城の築城を開始し、
甲斐の郡代として武田遺臣を慰撫し、
国内経営に尽力した(ただし、初期は
岡部正綱と共同支配であったとみられている)。

天正18年(1590年)、
小田原征伐で戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。

関ヶ原の戦い後の
慶長6年(1601年)、
再び甲斐に戻り、甲府6万3,000石を与えられ、
甲府城に在城した。

慶長8年(1603年)、
徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、
幼少かつ駿府にいる義直の守役・代理として
甲斐統治を行った。

慶長12年(1607年)、
義直が尾張藩主に転ずると、
義直の附家老として尾張に移り、藩政を執行した。

また
犬山藩主として12万3,000石を領した。

慶長16年(1611年)12月30日、
名古屋城二の丸御殿で死去した。

享年70。

墓所は平和公園内(平田院墓域)にある。

親吉には嗣子がなかったため、
平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、
八男の松平仙千代を養嗣子として与えていたが、
仙千代は
慶長5年(1600年)に早世した。

ただし
『徳川幕府家譜』では親吉の養子になったのは、
異母兄の松平松千代とある。

如何に親吉が功臣としても、
同母弟が後に御三家筆頭となる家系の兄を
養子とするとは考えにくく、
庶子の第二子である松千代の方が適当といえる。

自身の死後、
犬山藩の所領は義直に譲るように
遺言していたといわれる。

しかし家康は、
親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、
その昔、親吉との間に生まれたという
噂のあった子を見つけ出し、
平岩氏の所領を継がせようとした。

しかし
その子の母が親吉の子供ではないと固辞したため、
大名家平岩氏は
慶長16年(1611年)の親吉の死をもって断絶した
(ただし、『犬山藩史』では
甥の平岩吉範が後を継いで
元和3年(1617年)まで支配したとされる)。

親吉の一族衆の平岩氏庶家は
尾張藩士となり弓削衆と呼ばれた。

また、
江戸後期では姫路藩の家老職として存続し、
現在でも兵庫県等でその系統は続いている。

この系統の家紋は丸に右向きの並び弓。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  平岩親吉

2023/10/19

タツノコプロ設立

10月19日
木曜日

タツノコプロ設立

1962年(昭和37年)10月19日

アニメーション制作会社タツノコプロ設立。

漫画家の吉田竜夫が、
自身のマネージャーを務めていた
弟の吉田健二らと共に
「株式会社竜の子プロダクション」
(以下、「タツノコプロ」)を設立。

竜夫の末弟で漫画家の
九里一平(本名: 吉田豊治)も、
竜夫と健二に勧められるまま参加。

3兄弟が代表権を持つ取締役に就任し、
竜夫が社長、健二が専務、九里が常務となった。

当初は
吉田竜夫の漫画の版権やアシスタントの
管理をするための漫画専門の
プロダクションだった。

創設時には、
辻なおき、望月三起也、中城健が参加した。

1965年(昭和40年)5月

タツノコプロ単独制作により
『宇宙エース』がテレビアニメ第1作として
フジテレビ系列で放送開始。

モノクロ作品。

吉田兄弟、笹川ひろし、原征太郎を中心に
新たに奥田誠治、坪田力蔵、西岡たかし、
木下敏治、東映動画から美術の中村光毅、
虫プロダクションから
脚本家の鳥海尽三らが加わる。

その他、
新聞の募集広告で約60名のスタッフが集まる。

『宇宙エース』放送以後、
1980年中盤まで
タツノコ制作の多くの作品が
フジテレビ系列で放映される。

タツノコプロは
去年が60周年だったようですね!

我々の世代は
宇宙エースから知っていますから
ドップリと
タツノコプロのアニメ作品には
お世話になっていますね!

タツノコプロ設立