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2023/11/08

立冬(りっとう)

11月8日
水曜日

立冬(りっとう)

二十四節気の一つ。

冬の始まりを感じられる日。

秋分と冬至の中間にあたり
昼夜の長短の時間の
基準となる日。

暦の上では
この日から立春(2月4日頃)
までを冬とする。

立冬と言っても
ピンと来ませんね。

今年はあまりにも暖かすぎます。

立冬(りっとう)

2023/11/07

自転車屋の生き物歳時記 ツマグロヒョウモン♂

11月7日
火曜日

自転車屋の生き物歳時記

ツマグロヒョウモン♂

昨日
ツマグロヒョウモンの♂を見かけた。

褄が黒くないから♂だとすぐに分かった。

晩秋とは言え
今年は異常に暖かいので
色んなチョウを見かけますね。

ツマグロヒョウモン
(褄黒豹紋、Argyreus hyperbius)は、
タテハチョウ科ヒョウモンチョウ族に分類される
チョウの一種。

雌の前翅先端部が黒色で、
斜めの白帯を持つのが特徴である。

アフリカ北東部からインド、インドシナ半島、
オーストラリア、中国、朝鮮半島、
日本までの熱帯・温帯域に広く分布する。

この分布域は
他のヒョウモンチョウ類が
温帯から寒帯にかけて分布するのとは対照的である。

日本では
南西諸島、九州、四国、本州南西部で見られる。

本州では
1980年代まで近畿地方以西でしか見られなかったが、
徐々に生息域が北上し
1990年代以降には東海地方から関東地方南部、
富山県・新潟県の平野部で観察されるようになった。

2002年には
関東地方北部でも目撃報告がある。

2006年現在、
関東地方北部でもほぼ定着し、普通種になりつつある。

さらに、
2000年代の後半から2010年代にかけて
東北地方でも目撃例が相次ぎ、
現在は福島県、宮城県、山形県でほぼ定着している。

自転車屋の生き物歳時記  ツマグロヒョウモン♂

2023/11/07

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 宇喜多秀家(西軍 副大将)

11月7日
火曜日

「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集

宇喜多秀家
(西軍 副大将)
(柳 俊太郎)

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、
安土桃山時代の武将・大名。

宇喜多氏の当主。

通称は八郎、備前宰相。

父・直家の代に下克上で
戦国大名となった宇喜多氏における、
大名としての最後の当主である。

豊臣政権下(末期)の五大老の一人で、
家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。

関ヶ原の戦いで
西軍について敗れて領国を失うまで、
備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の
57万4,000石を領していた。

慶長5年(1600年)、
家康が会津征伐のため出兵している機を見計らい、
石田三成は毛利輝元を総大将として、
家康打倒のために挙兵した。

秀家は西軍の副大将として、
石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、
西軍の主力となる。

伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、
その後本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃したのち、
美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。

関ヶ原の戦いにおいても西軍主力
(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、
東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。

しかし
同じ豊臣一門である小早川秀秋が東軍につき、
西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。

秀家が西軍決起の発案者であるとの説がある。

石田三成が大谷吉継に協力を求める前の7月1日、
秀家が豊国社で出陣式を早くも行っていることを
その根拠とする。

なお、
この出陣式に高台院(ねね)は
側近の東殿局(大谷吉継の母)を代理として
出席させており、ともに戦勝祈願を行っている。

これにより、
高台院が東軍支持だったという俗説には、
主に白川亨により疑問が提示されている。

関ヶ原の戦い後、
宇喜多家は家康によって改易されたが、
秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。

このとき、
落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、
五右衛門は秀家を自宅に約40日もかくまった
(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)とする話が伝わっている。

秀家は京の太秦に潜伏、
京都所司代の奥平信昌に発見されるが逃走に成功。

同じ西軍側であった島津義弘などを頼って
薩摩国に落ちのび、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に
かくまわれた。

後世の編である
『常山紀談』では薩摩にのがれ剃髪して、
成元さらに休復と号したとしている。

このとき、
秀家が島津氏に兵を借り、
琉球王国を支配しようとしたという伝説が残っている。

しかし
「島津氏が秀家を庇護している」という
噂が広まったため、
慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって
家康のもとへ身柄を引き渡された。

なお、
身柄引き渡しの際に一緒についてきた
家臣2名を島津家に仕官させるが、
このうちの一人本郷義則は、
薩摩の日置流弓術師範の祖、
東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。

島津忠恒ならびに
縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、
駿河国久能山へ幽閉される。

慶長11年(1606年)4月、
同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。

八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めた。

『花房文書』『越登賀三洲志』によると、
妻の実家である加賀前田氏や宇喜多旧臣であった
花房正成らの援助を受けて(初期には秘密裏に、
晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが
江戸幕府より許された)50年を過ごし、
高貴な身分も相まって
他の流人よりも厚遇されていたと伝えられる。

また、
八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。

源家は宗福寺の住職も兼ねているが、
この寺院は宇喜多家の菩提寺である。

また、
元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、
前田利常から秀家に、
前田家から10万石を分け与えるから
大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、
秀家はこれを断って八丈島に留まったとも伝わる。

八丈島での生活は不自由であったらしく、
『明良洪範』は、
嵐のため八丈島に退避していた船に乗っていた
福島正則の家臣に酒を恵んでもらったと伝える。

このほか、
八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった
(あるいは飯を二杯所望し、
三杯目はお握りにして家族への土産にした)という話を、『浮田秀家記』『兵家茶話」が載せている。

また、
秀家が島で水汲女(現地妻)を置いたかどうかについては全くわかっていないが、
その記録が一切ないことから水汲女を置かなかったと
考えられている(『八丈島流人銘々伝』)。

明暦元年(1655年)11月20日、
秀家は死去した。

享年84。

このときすでに
江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、
関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた。

墓は東京都八丈町大賀郷の稲場墓地、
前田家所縁の東京都板橋区板橋の東光寺、
同じく石川県金沢市野町の
宝池山功徳院大蓮寺などにある。

法名は尊光院殿秀月久福大居士。

正室・豪姫の法名は樹正院殿命室寿晃大禅定尼。

大名の宇喜多家は滅亡したが、
秀家とともに流刑となった
長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、
のちに分家(浮田を称した)が3家興った。

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 宇喜多秀家(西軍  副大将)