ブログ

2023/11/12

鮨・酒・肴 杉玉 兵庫店

11月12日
日曜日

鮨・酒・肴 杉玉 兵庫店

サントリーモルツ中瓶
黒霧島お湯割2杯

刺身四種盛
(マグロ・タイ・ハマチ・〆サバ)

アジフライ
パリパリキュウリ
(かにみそ&明太子)

厳選2貫
(中トロ・つぶ貝)
アオサ赤だし

鮨・酒・肴  杉玉  兵庫店

2023/11/12

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 石田三成(治部大輔)(西軍 首謀者)

11月12日
日曜日

「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集

石田三成(治部大輔)
(西軍 首謀者)
(中村七之助)

石田 三成(いしだ みつなり)は、
安土桃山時代の武将・大名。

豊臣家家臣。

佐和山城主。

豊臣政権の奉行として活動し、
五奉行のうちの一人となる。

豊臣秀吉の死後、
徳川家康打倒のために決起して、
毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、
関ヶ原の戦いにおいて敗れ、
京都六条河原で処刑された。

慶長5年(1600年)6月16日、
家康は陸奥国会津を領していた
上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。

入れ替わるように
前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の
上坂要請を受けた毛利輝元が
7月17日に到着(大坂入城は19日)。

同時に三奉行連署からなる
家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状
(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。

ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。

この西軍の結成に関して
三成がどのような役割を果たしたのかについては、
研究者によって評価が分かれる。

従来の説は単独で決起した三成が
諸大名を引き込んだとするものであるが、
挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は
一次史料では不明であり、
また三成を西軍結成の首謀者とする史料は
江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている。

また、
家康が会津征伐に向かう際に、
三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして
拒絶されたとして、
これを挙兵と関連づける考えもあるが、
単に家康に会津征伐を
再考させるためのものであった可能性が高い。

『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、
大谷吉継を味方に引き入れるため
佐和山に招いたときの逸話が載せられている。

ただし『常山紀談』は
明和7年(1770年)成立の逸話集であり、
史実である確証はない。

また
上杉家の家老・直江兼続らと連携して
事前に挙兵の計画を練っていたとする説があるが、
これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、
一次史料による裏付けはない。

七月晦日付
真田昌幸宛三成書状には
「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、
沼田越に会津へ送り届けて欲しい」
(真田宝物館所蔵文書)と記されており、
西軍決起後の七月晦日の段階においても、
上杉家との確かな交信経路を
持ち合わせていなかった点から、
上杉側と三成の具体的な
謀議や提携はなかったとする考察がある。

決起した西軍は7月18日、
家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。

8月1日に城は陥落する(伏見城の戦い)。

8月に入って
伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城、安濃津城、
松坂城などを落とすが
東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。

こうして
東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。

通説では当初はやや西軍優勢で進み、
黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら数倍の敵を
一手に引き受けたとされているが、
小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによって
西軍は総崩れとなったとされている。

しかし、
東西どちらの陣営につくか迷った
秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため
意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、
江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、
合戦後すぐに作成された
9月17日付の石川康通、彦坂元正による連署書状には
秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている。

戦いに敗れた三成は、
伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。

その後、
春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、
曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。

そして、
小谷山の谷口から高時川の上流に出て古橋に逃れた。

しかし9月21日、
家康の命令を受けて三成を捜索していた
田中吉政の追捕隊に捕縛された。

一方、
9月18日に東軍の攻撃を受けて
三成の居城・佐和山城は落城し、
三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは
殺害された。

9月22日、
大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、
その後、家康と会見した。

9月27日、
大坂に護送され、
9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに
大坂・堺を罪人として引き回された。

9月29日、
京都に護送され、
奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、
家康の命により六条河原で斬首された。

享年41。

辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と 
ともに消えゆく 我が身なりけり」。

首は三条河原に晒された後、
生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、
京都大徳寺の三玄院に葬られた。

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集  石田三成(治部大輔)(西軍 首謀者)

2023/11/11

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集 島 左近(西軍 首謀者の家臣)

11月11日
土曜日

「どうする家康」
関ヶ原の戦い特集

島 左近
(西軍 首謀者の家臣)
(高橋 努)

島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、
戦国時代から安土桃山時代の武将。

筒井氏、石田三成の家臣。

通称は左近で、
一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。

実名は勝猛(かつたけ)などの
俗称が広まってはいるが、正しくは清興である。

また名字に関して、
本人の自署や『多聞院日記』などの同時代史料では、「島」でなく「嶋」の字が用いられている。

三成に
三顧の礼をもって迎えられ
破格の高禄を食む側近として仕え、
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり
島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった(『古今武家盛衰記』)。

娘の珠は柳生利厳の継室となっており、
剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫にあたる。

慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、
また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて
江戸からなかなか動けないはずの
徳川家康の美濃国赤坂
(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、
兵500を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に
戦いを挑み(杭瀬川の戦い)、
明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に勝利した。

しかし、
その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、
三成に受け入れられずに終わった。

関ヶ原の戦い本戦においては、
最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立った。

その最期については、

黒田長政軍の
菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、
死去した。

正午過ぎ、
小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに
西軍は総崩れとなり、左近は再び出陣。

正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、
敵の銃撃により討ち死した。

備中早島戸川氏に伝わる伝承によれば、
再び出陣の島左近を戸川達安が討ち取った。
とする説がある。

関ヶ原合戦での戦いぶりは、
徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」
と恐れさせたことが『常山紀談』に記されている。

江戸初期、筑前福岡城において、
関ヶ原に出陣し左近を襲撃した老いた武将達が
その服装について若侍相手に語り合ったが、
指物、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、
理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている。

享年は61歳。

左近の墓地は奈良市川上町の三笠霊苑内、
京都市上京区の立本寺塔頭教法院墓地に存在する。

この他にも
左近の墓は対馬、陸前高田などにもあるとされる。

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集  島  左近(西軍 首謀者の家臣)