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2023/11/21

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 本多正純(江戸幕府 初代老中)

11月21日
火曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

本多正純
(江戸幕府 初代老中)
(井上祐貴)

本多 正純(ほんだ まさずみ)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

江戸幕府の老中。

下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。

本多正信の長男で、正信系本多家宗家2代。

永禄8年(1565年)、
本多正信の嫡男として生まれる。

当時、
正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、
三河国を追放されて
大和国の松永久秀を頼っていたとされるが、
正純は
大久保忠世のもとで母親とともに保護されていた。

父が徳川家康のもとに復帰すると、
共に復帰して家康の家臣として仕えた。

慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦に参加した。

戦後、
家康の命令で石田三成の身柄を預かった。

また、
父・正信とともに
徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、
これを推挙した(「大久保家留書」)。

慶長6年(1601年)2月、
従五位下・上野介に叙任。

慶長8年(1603年)、
家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、
家康に重用されるようになる。

慶長10年(1605年)、
家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、
家康と秀忠の二元政治が始まると、
江戸の秀忠には大久保忠隣が、
駿府の家康には正純が、
そして正純の父・正信は両者の調停を務めるかたちで、
それぞれ補佐として従うようになった。

慶長13年(1608年)には
下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。

元和2年(1616年)、
家康と正信が相次いで没した後は、
江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、
年寄(のちの老中)にまで列せられた。

しかし先代からの宿老であることをたのみに権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近からうらまれるようになる。

なお、
家康と正信が死去した後、
2万石を加増されて5万3,000石の大名となる。

元和5年(1619年)10月に
福島正則の改易後、
亡き家康の遺命であるとして
下野国小山藩5万3,000石から
宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。

これにより、
周囲からさらなるうらみを買うようになる。

ただし、正純自身は、
さしたる武功も立てていない自分にとっては
過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、
加増を固辞していた。

幕僚の世代交代が進んでいたが、
正純はかわらず、幕府で枢要な地位にあった。

しかし、
後ろ盾である家康や父・正信が没し、
秀忠が主導権を握ったうえに、
秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで
正純の影響力、政治力は弱まっていった。

先代よりの忠勤に免じ、
改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に
5万5,000石を与えるという代命を受けた。

このとき使者として赴いた
高木正次、伊丹康勝らの詰問に
さらに弁明の中で謀反に身に覚えがない正純は
毅然とした態度で応じ、その5万5,000石を固辞した。

これが秀忠の逆鱗に触れることになった。

高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると
秀忠は激怒し、本多家は改易され
知行は1,000石のみとなり、
身柄は佐竹義宣に預けられ、
出羽国由利へ流罪となり、
のちに出羽国横手にて幽閉の身となった。

正純の失脚により、
家康時代その側近を固めた一派は完全に排斥され、
土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。

正純父子は、
牢にこそ入らなかったものの
屋敷からの外出はゆるされず、
その屋敷は逃亡防止のために板戸で囲われて
採光が不十分という、
蟄居や軟禁と呼ぶには過酷な待遇であったといわれる。

寛永14年(1637年)2月29日、
正純は配所の横手で死去した。

享年73。

本多正純の没年月日は
従来寛永14年3月10日(1637年4月5日)とされているが、
横手市での本多上野介正純の墓の現地踏査で、
横手区裁判所職員一同が
明治42年4月に建立した本多上墅介墓に
寛永14年2月29日卒と刻されている。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  本多正純(江戸幕府  初代老中)

2023/11/20

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 結城秀康(徳川家康 次男)

11月20日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

結城秀康
(徳川家康 次男)
(岐州 匠)

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

越前国北荘藩(福井藩)初代藩主。

越前松平家の祖。

下総結城氏第18代当主。

徳川家康の次男で、
豊臣秀吉の養子となり
羽柴 秀康(はしば ひでやす)を名乗ったが、
その後、
結城晴朝の養子となり、
結城の通称で呼ばれるようになった。

通説では
関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから
松平姓を名乗ったとされ、
松平 秀康(まつだいら ひでやす)と呼ばれるが、
一次史料でこの時期に称した名字は
明らかとなっていない。

天正2年(1574年)2月8日、
徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村
(現・浜松市西区雄踏町)で生まれた。

母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)。

幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。

誕生地は、
今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の 奉行を務める源範頼の系譜である
領主・中村源左衛門正吉の屋敷であった。

現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、
家康お手植えの梅の木「秀康の胞衣塚」が残る。

この縁により、
のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、
中村家で供応を受ける慣例が続いた。

『柳営婦女伝系』によると、
秀康は双子で誕生し、
弟はすぐに亡くなったとされている。

ただし、
生母の実家である知立神社に伝来する
「知立明神古文書」では、
弟は知立神社の神職となり永見貞愛を称し
31歳まで生きたとされる。

「知立明神古文書」には
秀康から送られた手紙などが含まれており、
年二千俵の援助を行っていたという。

家康の正室・築山殿は
長勝院が家康の子供を妊娠したことについて、
承認しなかったため
浜松城内から退去させられたとされる。

それは正妻としての権限であった。

正妻は、
別妻や妾として承知するどうかの権限を
持っていたと考えられる。

築山殿は長勝院を家康の妾とすることを
承知していないにもかかわらず妊娠したために、
女房衆から追放したのである。

それが江戸時代になると、
妻の嫉妬などという、矮小化した理解になっている。

秀康を妊娠した長勝院は
重臣の本多重次の差配により出産した。

城内から追放されたということは、
生まれてくる子供を家康の子供として
承認しないことを意味していた。

秀康は、
重次や中村源左衛門のもとで育てられたという。

築山殿が承認しない子供であったため、
家康もまた認知できなかった。

そのため
家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。

その対面も、
あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った
兄・松平信康による取りなしで
実現したものであったという。

ただ、
父子対面はあったかもしれないが、
それで家康の子として認知されたわけではなかった。

築山殿が死去してから
秀康は家康の子として認知されたのである。

冷遇の理由は、
築山殿をはばかったためとも、
双子で生まれてきたことにあるともされるが、
寛永11年(1634年)に書かれた
『中村家御由緒書』には
「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、
家康には何か考えることがあり、
お取り上げが難しいということになり」とだけ
書かれている。

研究者の小楠和正は
武田勝頼との戦いに直面していたために
家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、
対面する機会も持てなかったのではないかと
推定している。

天正7年(1579年)、
武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、
兄・信康が切腹させられる
(近年では信康が家康と対立したために
切腹させられたとされる説も有力)。

このため、
次男である秀康は
本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。

しかし、
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、
家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、
秀康は秀吉のもとへ養子
(徳川家や本願寺の認識、
秀吉側の認識は人質)として送られ、
家康の次の後継者は
異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。

母親の身分は
徳川秀忠の方が上であり、
信康切腹前に生まれた秀忠が
当初から後継者だったと考えられる。

同様の先例として、
やはり三男ながら貴族の母親から生まれ、
年少時から二人の兄をさしおいて
官位を受け後継者と見なされていた源頼朝が存在する。

大坂へは、
傅役の小栗大六(小栗重国)と
小姓の石川勝千代(石川康勝)
・本多仙千代(本多成重)がつきしたがう。

家康より
「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。

天正12年(1584年)12月12日、
羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。

河内国に1万石を与えられた。

天正3年(1585年)10月4日には侍従に任官した。

天正15年(1587年)、
14歳のとき、九州征伐で初陣を果たし、
豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。

続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。

天正16年(1588年)、
豊臣姓を下賜された。

また4月までの時点で
左近衛権少将・三河守に任官し、
「三河少将」と呼ばれた。

天正17年(1589年)、
秀吉に実子の鶴松が誕生すると、
秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。

そのためほかの養子同様に、再び他家に出される。

天正18年(1590年)、
実父の家康が駿遠三甲信から、
関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。

秀吉は、
関東平定の功労者である家康へさらなる加増として、
秀康を北関東の大名
結城氏の婿養子とすることを考えついた。

結城氏は
下野国の守護に任命されたことがある名家であった。

秀康は関東に下り、
黒田孝高の取り成しで
結城晴朝の姪(江戸重通の娘・鶴姫)と婚姻して
結城氏の家督および結城領10万1,000石を継いだ。

その後も羽柴姓を称しており、
羽柴結城少将と呼ばれた。

黒田基樹は
結城姓を称したことはなく、
「結城少将」の結城は
あくまで在所名であるとしている。

結城家を継いだ後、
大崎葛西一揆鎮圧のため、奥州に出陣した。

天正18年(1590年)の小田原平定、

天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。

文禄元年(1592年)、
文禄・慶長の役では、
多賀谷三経や本多富正など1500人を率いて
肥前国唐津に滞陣した。

この時期
秀朝の諱を用いているが、
慶長3年(1598年)10月までには秀康に諱を戻している。

慶長2年(1597年)9月28日には参議に任官し、
公卿となったことで
「結城宰相」などと呼ばれるようになった。

慶長4年(1599年)から慶長5年(1600年)6月まで
伏見城を守備した。

同年6月8日、
伏見を発って関東に向かい、
関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。

上杉景勝に呼応するかたちで石田三成が挙兵すると、
家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。

このとき家康によって、
本隊は家康自らが率いて東海道から、
そして別働隊を秀忠が率いて
中山道(東山道)を進軍することが決められ、
秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。

同年9月7日、
徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には
秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、家康は秀康の武将としての器量を評価しており、
父子がそれぞれの立場をわきまえて
生涯認めあっていたことは確かである。

同年11月、
秀康は越前国北荘68万石余に加増移封された
(越前の他、信濃国、若狭国の一部)。

結城旧来の家臣の中には
越前への移転を拒否するものが少なくなく、
それゆえこの越前移封は
最終的な在地離脱の強制として機能したもので、
その結果、
秀康は自らの権力における
旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。

慶長6年(1601年)7月、北庄に入部した。

「越前松平家系図」などの後世の系譜類では、
慶長9年に秀康が
「本姓に復して徳川姓に改めた」という記述があるが、
秀康が越前入封後に称していた名字が
明確になる史料は存在していない。

通説では「松平」姓を称していたとされるが、
市村高男など否定する研究者もいる。

黒田基樹は家康の子である秀康は、
他の松平家の名跡を継がない限り
松平氏を称することは歴史的に考えられないとしている。

慶長10年(1605年)、
権中納言へ昇進。

慶長11年(1606年)9月21日には
伏見城の留守居を命じられる。

だが病を得て職務を全うできなくなったため、
慶長12年3月1日に越前へ帰国し、
そのまま閏4月8日に死去した。

享年34。

死因は『当代記』に
「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、
梅毒だったとされる。

また梅毒が直接の死因ではなく、
梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  結城秀康(徳川家康  次男)

2023/11/20

任天堂

11月20日
月曜日

任天堂

1947年(昭和22年)11月20日
任天堂骨牌株式会社が設立

若い人は知らないだろうけど
任天堂は元々は
花札・株札・トランプ・かるたなどを作っていた会社

1966年(昭和41年)
ウルトラハンド発売

1970年(昭和45年)
光線銃シリーズ発売

1980年(昭和55年)
ゲーム&ウオッチ発売

1983年(昭和58年)
ファミリーコンピュータ発売

1989年(平成元年)
ゲームボーイ・スーパーファミコン発売

1996年(平成8年)
Nintendo64発売

2001年(平成13年)
ゲームボーイアドバイス・
ゲームキューブ発売

2004年(平成16年)
ニンテンドーDS発売

2006年(平成18年)
Wii発売

ファミリーコンピュータが
最大のヒット作になるのかな。

50代は
ゲーム&ウオッチ
ファミリーコンピュータ

40代は
ゲームボーイ
スーパーファミコン

30代は
ゲームボーイアドバンス
ニンテンドーDS

60代の私は
ウルトラハンド
光線銃シリーズですけどね。

まあこんな感じですかね!?

任天堂