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2023/11/27

ノーベル賞制定記念日

11月27日
月曜日

ノーベル賞制定記念日

1895年11月27日

スウェーデンの化学者
アルフレッド・ノーベルが、

自分がダイナマイトで得た財産を
人類の平和に寄付するという
遺言状を書いたことに由来。

ノーベル賞制定記念日

2023/11/27

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 ウィリアム・アダムズ(三浦按針)

11月27日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

ウィリアム・アダムズ
(三浦按針)
(村雨辰剛)

ウィリアム・アダムズ
(William Adams、1564年9月24日
- 1620年5月26日〈元和6年4月24日〉は、
江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えた
イングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。

日本名は
三浦 按針(みうら あんじん)。

サムライの称号を得た最初の外国人だった。

関ヶ原の戦いの
約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、
リーフデ号は豊後国臼杵の黒島に漂着した。

自力では上陸できなかった乗組員は、
臼杵城主・太田一吉の出した小舟で
ようやく日本の土を踏んだ。

一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。

広高はアダムズらを拘束し、
船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった
武器を没収したのち、
大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。

この間に
イエズス会の宣教師たちが訪れ、
オランダ人やイングランド人を
即刻処刑するように要求している。

結局、
五大老首座の徳川家康が指示し、
重体で身動きの取れない
船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、
アダムスとヤン=ヨーステン・
ファン・ローデンスタイン、
メルキオール・ファン・サントフォールトらを
大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、
家康は初めて彼らを引見する。

イエズス会士の注進で
リーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、
路程や航海の目的、
オランダやイングランドなどプロテスタント国と
ポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を
臆せず説明するアダムズとヤン=ヨーステンを
気に入って誤解を解いた。

しばらく乗組員たちを投獄したものの、
執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、
幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、
城地である江戸に招いた。

江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、
叶うことはなかった。

代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、
外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、
助言を求めたりした。

またこの時期に、
幾何学や数学、航海術などの知識を
家康以下の側近に授けたとも言われている。

やがて
江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、
船大工としての経験を買われて、
西洋式の帆船を建造することを要請される。

永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、
当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、
伊東に日本で初めての造船ドックを設けて
80tの帆船を建造した。

これが1604年(慶長9年)に完成すると、
気をよくした家康は大型船の建造を指示、
1607年(慶長12年)には
120tの船舶を完成させる。

この功績を賞した家康は、
さらなる慰留の意味もあって
アダムスを250石取りの旗本に取り立て、
相模国逸見に采地も与えた。

また、
三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の
名乗りを与えられ、
異国人でありながら日本の武士として生きるという
数奇な境遇を得たのである。

のち、
この所領は息子のジョゼフが相続し、
三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。

1613年(慶長18年)に
イギリス東インド会社のクローブ号が
交易を求めて日本に来航した際、
一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、
貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。

1614年(慶長19年)の
クローブ号帰還の際には、
一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、
同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、
帰国を見送った。

セーリスは
何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、
アダムズはセーリスを
生意気で無礼な青二才として嫌っていた。

一行が去ったあとは、
それまで手伝っていた
オランダ商館より安い賃金だったが、
母国イギリス商館の仕事を手伝った。

家康に信頼された按針だったが、
1616年(元和2年)4月に家康が死去、
跡を継いだ徳川秀忠をはじめ
江戸幕府の幕臣たちが海外貿易を
幕府に一元化する目的で
貿易を長崎と平戸の二港のみに制限すると、
幾度も幕府に方針の転換を説いたが相手にされず、
また秀忠との目通りも叶わず、
按針の立場は不遇となった。

以降の按針の役目は天文官のみとなったが、
幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。

按針は憂鬱な状態のまま、
1620年5月26日(元和6年4月24日)に平戸で死去した
(満55歳没)。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  ウィリアム・アダムズ(三浦按針)

2023/11/26

焼肉バル きんちゃん家 牛すじカレー

11月26日
日曜日

焼肉バル
きんちゃん家

〆の炭水化物

牛すじカレー

ハイボール

きんちゃん家の
牛すじカレーは美味い!!

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