ブログ

2023/11/29

大阪万博の思い出

11月29日
水曜日

大阪万博の思い出

1970年(昭和45年)
大阪万博

私は小学校3年生だった訳ですが

オーストラリア人が
生パイナップルを縦に切って
割り箸に差して売っていたのを
母に買って貰い食べました。

確か100円だったと思います。

生のパイナップルは
大阪万博が初体験でしたね。

パイナップルと言えば
それまでは
缶詰の輪切りのシロップ漬けしか
知りませんでしたからね。

子供だったので
缶詰の方がぜんぜん甘いな!とは
思いましたが

本当のパイナップルは
甘酸っぱい事を知りました。

大阪万博の思い出

2023/11/28

1970年 大阪万博で普及した物

11月28日
水曜日

1970年
大阪万博で普及した物

1970年(昭和45年)
大阪万博での出来事。

私は小学校3年生でしたが
今でもよく覚えています。

アメリカ館で3時間並んだ時
回りが暗くなり
腹を空かせた私と弟に
母が列を抜けて
アメリカ式の
鶏の唐揚げを買って来てくれました。

食べた事のない味でしたが
美味しかったのも
よく覚えています。

大阪万博で
テスト販売されていた
ケンタッキーフライドチキンでした。

私は日本で初めて
ケンタッキーフライドチキンを食べた
一人でした。

ケンタッキーフライドチキンの他

UCCの缶コーヒー
明治ブルガリアヨーグルト
シャチハタの印鑑などが

1970年の
大阪万博を期に
全国に一気に普及していった物
だったようです。

1970年 大阪万博で普及した物

2023/11/28

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 真田信幸

11月28日
火曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

真田信幸
(吉村界人)

真田 信之(さなだ のぶゆき)は、
戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。

信濃上田藩の初代藩主、
後に信濃松代藩の初代藩主。

信幸と表記される場合もある。

秀吉死後、
慶長5年(1600年)に失脚していた
五奉行の石田三成が挙兵する。

父(妻の山手殿は石田三成の妻と姉妹という説があり、
この山手殿は信之信繁の兄弟にとって実母でもある)と
弟の信繁(妻が西軍幹部の大谷吉継の娘である竹林院)は三成らの西軍に付いたのに対し、
家康の養女かつ徳川重臣の本多忠勝の娘の
小松姫を妻とする信之は
家康らの東軍に参加することを決め、
家康の息子で東軍主力隊の徳川秀忠軍に属して
上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。

戦いの前に
本多忠勝の息子で信之の義弟(妻・小松姫の弟)である
本多忠政と共に父昌幸の説得に赴いたが、
結局失敗に終わったとされる。

信幸は
信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、
真田兵同士の消耗を避けるため開城請求の使者を派遣、
弟信繁も信之の意を汲み開城に応じた。

信之は入城後守備し、
信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。

なお、
秀忠軍本隊は家康の使者の遅れもあって、
家康本体との合流に遅れて関ヶ原の戦いには遅参し、
本戦には参加できなかった。

戦後、
昌幸の旧領に加え3万石を加増されて
9万5,000石(沼田3万石を含む)となり
上田藩主となったが、
上田城は破却を命じられた
(上田城の再建修築は、
後に上田藩主として入った仙石氏が行う)。

引き続き沼田城を本拠とした。

信幸は昌幸らの助命を嘆願し、
西軍に付いた父との決別を表すために、
名を信幸から信之に改めている
(なお、慶長13年(1608年)から17年(1612年)までは
再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、
平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する
「幸」を捨てたとは言えないとしている)。

義父・本多忠勝の働きかけもあり、
昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となる。

その後、
父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう
幕府に許可を願い出たが、許されなかった。

信之が上田領を継いだ頃、
第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で
領内は荒廃しており、
その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、
九度山にいる父や弟への援助を続けていた。

慶長19年(1614年)からの
大坂の陣では病気のために出陣できず、
長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。

元和8年(1622年)10月、
信濃松代に加増移封され、
13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。

明暦元年(1656年)、
長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が
既に死去していたため、
次男の信政に家督を譲って隠居する。

しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。

この時、
真田家では後継者争いが起こり、
長男の血統(信吉の次男)である
沼田城主・信利が次男の血統(信政の六男)である
幸道の家督相続に異議を唱えて
幕府に訴える事態となり、
幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。

最終的には幸道が第3代藩主となり、
2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った
(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、
松代藩は10万石となる)。

同年10月17日に死去。

享年93。

辞世は「何事も、移ればかわる世の中を、
夢なりけりと、思いざりけり 」。

墓所は
長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。

また、
真田家の菩提寺長国寺には、
藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。

真田家は江戸時代を通じて存続し、
途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、
幕末に幸貫が老中となっている。

明治維新後に子爵(後に伯爵)家となった。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  真田信幸