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2023/12/04

自転車屋の生き物歳時記 カブトムシの幼虫

12月4日
月曜日

自転車屋の生き物歳時記

カブトムシの幼虫

冬場なので
越冬している
幼虫シリーズになります。

7月〜9月にかけて
腐り切った朽木や腐葉土や堆肥に
産み落とされた
2〜3mmのカブトムシの卵は

2週間ぐらいで
7〜8mmの1令幼虫となり
大量の腐葉土や堆肥を食べて
短期間でどんどん成長し

越冬を控えた晩秋までには
10cmまでの3令幼虫に成長する。

4月下旬〜6月にかけて
土中に蛹室を作り蛹になる。

6月〜8月にかけて
成虫になり地上に出て来る。

カブトムシの幼虫は
腐り切って土化した植物繊維しか
食さないので害虫では無い。

自転車屋の生き物歳時記  カブトムシの幼虫

2023/12/04

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 片桐且元(元豊臣家の家臣)

12月4日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

片桐且元
(元豊臣家の家臣)
(川島潤哉)

片桐 且元(かたぎり かつもと)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

賤ヶ岳の七本槍の一人。

豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。

関ヶ原の戦い以降は家老として豊臣秀頼に仕え、
秀頼の命で、
滅失していた方広寺大仏(京の大仏)
および大仏殿の再建にあたった。

しかし同寺院に納める
梵鐘の鐘銘をめぐり方広寺鐘銘事件
(京都大仏鐘銘事件)が生じ、
大坂城を退出して徳川方に転じた。

且元系片桐家初代で、
大和国竜田藩初代藩主となる。

弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。

慶長19年(1614年)9月23日
織田信雄より薄田兼相らを討手とする
暗殺計画を知らされ屋敷に篭り守りを固めた。

且元殺害を企てているとされたものは、
木村重成、渡辺糺、石川貞政、青木一重 、薄田兼相の名が史料に残っている。

また京都所司代の板倉勝重は
大野治長と織田頼長による
且元暗殺計画があったと把握している。

秀頼や淀殿と何度か手紙のやり取りがあったものの、
隣りにある織田有楽斎の屋敷との間で、
互いの家臣が武装して警戒し合う事態となっていた。

また大野治長らが軍勢を集めたこともあり、
且元側でも防備を固めた。

しかしこれは武装解除を命じた
秀頼・淀殿の意に沿わない行為であり、
且元が寺に入って隠居するよう命じられた。

27日には
織田有楽・大野治長からの人質を預かって
大坂城外の下屋敷に移り、
そこで蔵米や金などの勘定の引き継ぎ作業を行った。

且元の大坂城からの退去と同時期に、
織田信雄や織田信則・石川貞政など
複数の重臣・親族衆も大坂城から退去している。

秀頼は
家康・秀忠・京都所司代板倉勝重宛に
且元が自分の屋敷に軍勢を集め
「不届」であったと伝える使者を送っているが、
これを聞いた家康は激怒した。

板倉勝重は
28日の本多忠政宛書状で、
必ず戦争になるから準備しておいたほうがいいという
趣旨を伝えている。

『義演准后日記』では
「大坂が家康に敵対の態度をとった」と解釈している。

10月1日の明け方ごろ、
一族・家臣を率き連れ、
弟の貞隆らとともに大坂より退去した。

且元は平服であったが、
貞隆以下家臣たちは皆武装をしていた。

人数は四千人ほどであったという。

河内国荒川で
治長・有楽からの人質を返し、
貞隆の茨木城へ入った。

同時期には
秀頼や有楽から幕府側に、家康への敵対は
考えていないという書状が送られているが、
相手にされなかった。

また同日、
家康は大坂城攻めの出陣を決定している。

10月5日、
本多正純から大坂への出兵と、
且元が無事に茨木城に退去したことを聞いた
家康が喜んだという書状が送られている。

10月10日、
且元は土佐国へ大坂への米の回送を禁じている。

10月12日には
家臣の多羅尾半左衛門を300の兵で
堺の救援に向かわせたが、
迎撃されて半左衛門は戦死に至る。

自らも本隊を率いて、
海路を進むために尼崎の港を目指したが、
上手くいかずに逃げ帰る。

10月15日には
茨木城が攻撃されることが懸念されるようになり、
板倉勝重に援兵を依頼している。

家康が二条城に到着した
23日には軍議に加わり、先鋒を命じられる。

11月1日には
小豆島周辺3か国に物資の回送と
大坂城の経済封鎖を命じ、
3日には絵図の制作にあたり、
5日には今井宗薫ら堺衆の奮戦を賞賛するなど、
徳川方に協力をした。

また11月5日には
大坂城包囲を命じられている。

16日より行われた真田丸への攻撃では、
18日から且元も家康の砲術方の数十人を率いて
これに加わり、
備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃などを行った。

この戦果が
大坂方を講和の席につかせる一つの契機となった。

冬の陣の講和後、
且元は一万石の加増を受けている。

慶長20年(1615年)1月
隠居を願い出たが許されず、
竜田や伏見などに転居の後、
4月は駿府に屋敷が与えられた。

江戸への拝謁の途上で夏の陣が起こると、
4月26日の夜半には竜田城の周辺へ放火が行われた。

5月6日午後、
且元は道明寺に到着。

7日早朝、
久宝寺で将軍・徳川秀忠麾下の弟・貞隆の隊に合流し、
軍監・石川貞政、蒔田広定ら諸将と会した。

且元・貞隆隊は
岡山口への布陣を命じられた。

初陣の嫡男・片桐孝利には
家臣の梅戸八右衛門を付けて送っている。

大坂城の落城後、
大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいることを、
彼らの助命嘆願の依頼とともに
且元へ知らせてきたので秀忠に通報するも、
豊臣氏は助命叶わず滅亡した。

且元は前年より咳病を患い、
家康より送られた片山宗哲の診察を受けていたが、
大坂夏の陣から20日ほどした
5月28日に京屋敷にて
60歳で死亡した。

葬儀は大徳寺で行われた。

且元の跡は嫡男の孝利が跡を継いだが、
竜田藩1万石はその甥で4代片桐為次が早世したことで
明暦元年(1655年)に無嗣断絶となった。

こうして且元の系統は絶えたが、
大和小泉藩1万1千石の藩主となった
弟・片桐貞隆の家系は明治まで大名として存続し、
その子孫は明治になって子爵に叙せられている。

女性アイドルグループ
・NGT48の元メンバーである西村菜那子は
2017年6月26日の冠番組
『NGT48のにいがったフレンド』で
且元の末裔と公表している。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  片桐且元(元豊臣家の家臣)

2023/12/03

あぐろの湯 豪華カレーうどんセット

12月3日
日曜日

12年の月あぐろの湯

〆の炭水化物

最近は
〆の炭水化物は
外に出るばっかりで

あぐろのカレーうどんを食べていないなと
思っていたところに

月見と辛ねぎがトッピングされ
鶏天やライスの付いた
豪華カレーうどんセットをやっていた。

豪華カレーうどんセット

デカ!レモンサワー

あぐろの湯  豪華カレーうどんセット