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2023/12/07

大雪(たいせつ)

12月7日
木曜日

大雪(たいせつ)

二十四節気の一つ。

気の冬至前日までである。

雪が激しく降り始めるころ。

『暦便覧』では
「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」
と説明している。

鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、
熊が冬眠に入り、
南天の実が赤く色付くころ。

大雪(たいせつ)で検索すると
大雪(おおゆき)の画像が出てくる。

今年は
12月に入った途端に
年末年始並みの寒さとなりましたので
大雪の感じはしますね。

大雪(たいせつ)

2023/12/06

音の日

12月6日
水曜日

音の日

日本オーディオ協会が
1994年(平成6年)に制定。

1877年(明治10年)12月6日

トーマス・エジソンが
自身が発明した蓄音機で
音を録音・再生することに成功したことを記念。

音の日

2023/12/06

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 千姫(徳川家康の孫娘)

12月6日
水曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

千姫
(徳川家康の孫娘)
(原 菜乃華)

千姫(せんひめ)は、
安土桃山時代から江戸時代の女性。

豊臣秀頼・本多忠刻の正室。

父は徳川秀忠、
母は浅井長政の三女である浅井江
(太閤豊臣秀吉の養女・達子)。

号は天樹院。

慶長2年(1597年)4月11日、
秀忠と江(後に夫になる秀頼の叔母)の長女として、
山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。

慶長8年(1603年)に
7歳でいとこの秀頼と結婚し、従者ともに大坂城に入る。

慶長20年(1615年)の
大坂夏の陣では、
祖父・徳川家康の命により
落城する大坂城から救出される。

その後、
秀頼と側室の間の娘・天秀尼が
処刑されそうになった時に、
千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける
(秀頼と淀殿に対する助命嘆願は
聞き届けられなかった)。

元和2年(1616年)、
桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚した。

この時、
津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って
千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、
直盛は家臣により殺害され、
それを直盛が自害したように見せかけたが、
坂崎家は改易処分となった(千姫事件)。

同年9月26日に桑名城に着いた。

この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。

翌元和3年(1617年)、
本多家が播磨姫路に移封になった時には、
8月28日に桑名を発って姫路城に移り、
播磨姫君と呼ばれるようになる。

翌元和4年(1618年)には
長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、
元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。

しかし、
元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、
寛永3年(1626年)には
夫・忠刻、姑・熊姫、母・浅井江が
次々と没するなど不幸が続き、
本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。

江戸城に入り、
出家して天樹院と号す。

出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした。

寛永5年(1628年)に
勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、
一人暮らしとなる。

池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、
「天樹院書状」を送っている。

寛永9年(1632年)、
父・秀忠が薨去。

寛永16年(1639年)、
光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。

寛永20年(1643年)、
鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。

正保元年(1644年)には
弟・徳川家光の厄年を避けるために
江戸城から移った家光の側室・夏(後の順性院)と
その後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。

綱重を養子にすることで
大奥に対して大きな発言権を持つようになり、
4代将軍・家綱の時代になっても
大奥の最高顧問的な権威をもっていた。

寛文5年(1655年)の
越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、
嫁側である越後高田藩・勝姫
(千姫の妹、越後高田藩主・松平光長の母)に
依頼されて、幕府に対して介入を行った。

明暦3年(1657年)の
明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、
叔父・徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。

寛文6年(1666年)2月6日、
江戸で死去。

享年70。

死因は肺炎と見られる。

亡くなった夜、
曾祖母・於大の方の菩提寺である
小石川伝通院に納められ、
導師・知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。

墓所は伝通院と
茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、
また徳川家(松平家)が
三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である
京都の知恩院に、
定例により分骨され宝塔に納められた。

知鑑は後に位牌や遺物を祭るため、
伊勢に寂照寺を開いた。

戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

長らく遺髪のみ納められたと
言い伝えがあった天樹院弘経寺の墓所では近年、
千姫の頭蓋骨や
高価な宝飾品が確認されていることから
伝通院のほうこそが遺髪のみ、
あるいは分骨である可能性が示唆される。

幕府からの寄付を目的に
貴人の墓石だけ置かれる事自体は珍しい事ではなく、
伝通院に本当に遺骨が実在するかどうか
少なくとも記録には無い。

そもそも
千姫単独で弔われているのは
茨城の弘経寺だけであること、
鬼怒川を上っていくと日光東照宮があることからも
本当の墓は弘経寺だと考えるのが妥当である。

明暦の大火からの
復興に明け暮れた晩年の千姫にとって
風光明媚な常陸国は夢にまで見た安楽の都だった。

甥で養子の徳川綱重が
母の弔いにと自ら天樹院弘経寺へと
足を運んでいることからも
常陸国が徳川家(徳川氏)に
いかに重要視されていたかがわかる。

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  千姫(徳川家康の孫娘)