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2023/12/19

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 春日局(徳川家光の乳母)

12月19日
火曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

春日局(かすがのつぼね)
(徳川家光の乳母)
(寺島しのぶ)

春日局/斎藤福
(かすが の つぼね/さいとう ふく)
天正7年〈1579年〉~
寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)

安土桃山時代から江戸時代前期の
江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。

「春日局」とは朝廷から賜った称号である。

父は美濃国の名族
斎藤氏(美濃守護代)の一族で
明智光秀の重臣であった斎藤利三、
母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、
又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、
養父は稲葉重通。

稲葉正成の妻で、正勝・正定・正利の母。

養子に堀田正俊。

江戸城大奥の礎を築いた人物であり、
松平信綱・柳生宗矩と共に
家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。

また、
朝廷との交渉の前面に立つ等、
徳川政権の安定化に寄与した。

福は、将軍家の乳母へあがるため、
夫の正成と離婚する形をとった。

慶長9年(1604年)
2代将軍・徳川秀忠の嫡子
・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。

このとき選考にあたり、
福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。

息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、
元和9年(1623年)に老中に就任、
寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。

家光の将軍就任に伴い、
「将軍様御局」として大御台所・お江与の方の下で
大奥の公務を取り仕切るようになる。

寛永3年(1626年)のお江与の没後からは、
家光の側室探しに尽力し、
伊勢慶光院の院主であったお万や、お蘭(お楽の方)、
お振、お夏、お玉、お里佐、おまさなどを
次々と奥入りさせた。

また、大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど、
大奥を構造的に整備した。

将軍の権威を背景に
老中をも上回る実質的な権力を握る。

寛永6年(1629年)には、
家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、
そのまま10月には上洛して御所への昇殿を図る。

しかし無位無官の武家の娘という身分のままでは
御所に昇殿するための資格を欠くため、
血族であり(福は三条西公条の玄孫になる)、
育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしたが、
既に他界していたため、
やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組をし、
公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、
三条西 藤原福子として同年10月10日、
後水尾天皇や中宮和子に拝謁、
従三位の位階と「春日局」の名号、
及び天酌御盃をも賜る。

その後、
寛永9年(1632年)7月20日の
再上洛の際に従二位に昇叙し、
緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。

よって二位局とも称され、
同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となる。

寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、
幼少の孫正則を養育、
後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。

寛永12年(1635年)には
家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。

寛永20年(1643年)9月14日に死去、
享年64。

辞世の句は
「西に入る 月を誘い 法をへて
今日ぞ火宅を逃れけるかな」。

法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。

墓所は東京都文京区の麟祥院、
神奈川県小田原市の紹太寺、
京都市の金戒光明寺および妙心寺の塔頭麟祥院。

死去の直前に当たる9月10日、
家光は稲葉正則の娘(3歳)と堀田正俊の婚約、
正則の妹と酒井忠能の婚約を発表した。

この上意は
新興譜代大名である稲葉氏と堀田氏を
門閥譜代大名の酒井氏と結びつける意図があった。

以後正則・正俊はそれぞれ幕閣に登用され、
老中・大老に就任、幕政に参加した

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  春日局(徳川家光の乳母)

2023/12/18

アゲハの幼虫

12月18日
月曜日

アゲハの幼虫

昨日
防災訓練のあと
消防団詰所に戻って資材の片付け等をしていると
詰所の隣の家の植え込みに
アゲハの幼虫を発見した。

これから
蛹になって長い越冬をするのか!?

また様子を見に行こう。

アゲハの幼虫

2023/12/18

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝 南光坊天海

12月18日
月曜日

「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝

南光坊天海
(小栗 旬)

天海(てんかい、天文5年(1536年)?
~寛永20年10月2日(1643年11月13日))

安土桃山時代から
江戸時代初期にかけての天台宗の僧、
大僧正。

尊号は南光坊(なんこうぼう)、
院号は智楽院(ちらくいん)、
諡号は慈眼大師(じげんだいし)。

天海としての足跡が明瞭となるのは、
無量寿寺北院に来てからである。

この時、
江戸崎不動院の住持も兼任していた。

浅草寺の史料によれば北条攻めの際、
天海は浅草寺の住職・忠豪とともに
徳川家康の陣幕にいたとする。

これからは、
天海はそもそも家康のために
関東に赴いたことがうかがえる。

豪海の後を受けて、
天海が北院の住職となったのは
慶長4年(1599年)のことである。

その後、
天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。

慶長12年(1607年)に
比叡山探題執行を命ぜられ、
南光坊に住して延暦寺再興に関わった。

ただし、辻達也は、
天海は慶長14年(1609年)から
家康に用いられたとしている。

この年、権僧正に任ぜられた。

また慶長17年(1612年)
無量寿寺北院の再建に着手し、
寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。

慶長18年(1613年)
家康より日光山貫主を拝命し、
本坊・光明院を再興する。

大坂の陣の発端となった
方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。

元和2年(1616年)
危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を
同年4月に大僧正となった天海らに託す。

家康死後には
神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。

天海は「権現」として
自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、
崇伝は家康の神号を
「明神」として
古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。

2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、
天海は、
豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の
豊臣氏滅亡を考えると、
明神は不吉であると提言したことで
家康の神号は「東照大権現」と決定され
家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

その後3代将軍・徳川家光に仕え、
寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。

江戸の都市計画にも関わり、
陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

紫衣事件などで
罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、
大久保忠隣・福島正則・徳川忠長などの
赦免を願い出ている。

これは輪王寺宮が特赦を願い出る
慣例のもととなったという。

堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。

寛永20年(1643年)
108歳で没したとされる。

その5年後に、
朝廷より慈眼大師号を追贈された。

天海は生前に
日本での一切経(大蔵経)の印刷と出版を企図。

慶安元年(1648年)には、
天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、
幕府の支援により完成した。

天海による
これらの経典の出版は日本の印刷文化史上、
最も重要な業績の一つと言われている。

天海が作製させた
膨大な木製活字(天海版木活字)は
26万個以上が現存している。

慈眼堂 - 輪王寺にある天海の廟所(国の重要文化財)
慈眼堂 - 喜多院にある天海の廟所(国の重要文化財)
慈眼堂 - 大津市坂本にある天海の廟所(滋賀県指定文化財)

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝  南光坊天海