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2024/02/15

春一番名付けの日

2月15日
木曜日

春一番名付けの日

安政6年(1859年)旧暦2月13日

壱岐郷ノ浦の漁師53人が
五島沖で突風に遭い全員が死亡した。

それ以前から、
郷ノ浦の漁師の間で
春の初めの強い南風が「春一」と呼ばれており、
これが「春一番」の語源とされていることによる。

春一番は
恐ろしい風を表す意味だったんですね。

春一番名付けの日

2024/02/14

自転車屋の生き物歳時記 クサギカメムシ

2月14日
水曜日
聖バレンタインデー

自転車屋の生き物歳時記

クサギカメムシ

自販機の下に茶色いカメムシがいた。

クサギカメムシと言う種類のようだ。

季節外れの暖かさで出てきたのかな。

クサギカメムシ
(臭木亀虫、学名:Halyomorpha halys)は、
カメムシの1種。

果樹などの農業害虫としても知られ、
また室内に侵入することも多く
衛生害虫としても知られている。

クサギカメムシは、
カメムシ科に属する昆虫である。

体色は全身が暗褐色で、ほぼ無地に見える。

普段見かけるカメムシの中では大きい方で、
普通なアオカメムシであるアオクサカメムシより大きく、大型のアオカメである
ツヤアオカメムシよりやや大きい。

日本のほぼ全土に分布し、
ごく普通種である。

山野にも普通であるが、
耕作地に出現することも多い。

多食性で、幅広い植物につき、
果樹や豆類の害虫としても古くから知られてきた。

また
成虫が越冬の際に人家に入り込むことがあり、
その悪臭を出す性質もあって
衛生害虫としても知られている。

1990年代に
近畿地方を中心にアオカメムシ類の大発生があった折、
クサギカメムシも多く含まれていた。

標準和名は
クサギによくいることによる。

古い名として、
サビガイダ、ススイロカメムシ、アカハラクサガメ、
モモカメムシ、チャイロガイダなどの名が
伝えられている。

西日本の一部地域では
「ホウムシ」と呼ばれている。

体長は13 - 18 mm。

全体の形としては典型的なカメムシの形で、
腹背にやや扁平。

全身は
前翅の膜質部を除いてほぼ一様な褐色系の色であるが、
明暗には個体差がある。

実際には
わずかにまだらの模様や一面に
細かな黄褐色の斑点がある。

頭部は突き出すが先端が狭まらず、
幅広くて丸くなっている。

触角は体色と同色で、
関節の部分が白くなっている。

前胸は両肩があまり強く突き出さない。

前胸の前縁に四つの小さな斑点が並ぶ。

腹部は中程がやや幅広くなり、
たたんだ前翅の両側に少しはみ出す。

前翅の膜質部は腹部の後端を超える。

幼虫は成虫に似ているが、
頭部、胸部と腹部前方の節の側面に鋭い突起が並ぶ。

植食性のカメムシで、
非常に多くの種の植物を攻撃することが知られている。

茎や葉から吸うだけでなく、
成虫は果実も好んで吸う。

しかし、幼虫は果実にはつかない。

また、幼虫が寄生する植物はより狭い範囲の樹木であり、主たる栄養源は
マツ、イチイ、スギ、サクラ、キリ、クワなどで、
繁殖と幼虫の成長もここで行われる。

刺激を受けると悪臭を放つ。

その臭いは強烈で、
「最も臭気の強い種の一つ」との声もある。

本州中部では年一化性と見られる。

成虫越冬で、
朽ち木のひびの間、枯れ木の樹皮下など
遮蔽された場所に潜り込んで冬を過ごす。

この時、人家に侵入することもある。

春になると成虫は出てきてあちこち飛び回り、
様々な植物について栄養吸収する。

この時に果樹などに被害を与えることもある。

成虫は夏まで生存し、
交尾と産卵を繰り返し、
秋の初めまでに次第に死亡する。

産卵は6月下旬から7月初旬にかけて、
宿主植物の葉の裏側で行われる。

卵は約28個が
一層に集まった卵塊の形で産み付けられる。

孵化した一齢幼虫は卵塊の上かその付近に密集して、
そのままで脱皮して二齢となる。

二齢幼虫も当初は集団を作るが、
次第に分散してゆく。

幼虫は五齢まであり、
8月ころから次第に成虫になる。

新成虫は繁殖行動を取ることなく越冬に向かう。

日本では
北海道から九州まで広く知られ、
沖縄島、石垣・西表でも記録されている。

国外では、
朝鮮半島、中国、台湾など東アジアに広く分布する。

自転車屋の生き物歳時記  クサギカメムシ

2024/02/14

ドラマ大奥 主要登場人物 お知保

2月14日
水曜日
聖バレンタインデー

ドラマ大奥
主要登場人物

蓮光院
(お知保)
(第十代将軍徳川家治の側室)
(森川 葵)

蓮光院(れんこういん)
元文2年11月15日(1737年12月6日)
~寛政3年3月8日(1791年4月10日))

江戸幕府の10代将軍徳川家治の側室。

徳川家基の生母。

俗名は知保、智保。

父は津田宇右衛門信成。

養父は伊奈忠宥。

寛延2年(1749年)11月
大御所・徳川家重の御次として仕え、
初めは「お蔦」、後に「お知保」と称した。

同4年(1751年)1月18日には御中臈に昇格した。

家重逝去後の
宝暦11年(1761年)8月5日
江戸城本丸大奥へ移り、家治付きの御中臈となる。

宝暦12年(1762年)10月25日
長男・家基(幼名・竹千代)を出産したが、
同年11月
家治の御台所・五十宮倫子がその養母となったため、
家基は倫子のもとで育てられた。

同月15日
長子出産の功労から「老女上座」 の格式を賜った。

明和 6年(1769年)
家基が将軍世子として西の丸御殿へ移ると、
それに随従して西の丸大奥へ移り、
同月4日には格式が
「浜女中(浜御殿にいた先代将軍側室)」同様となる。

明和8年(1771年)
倫子が死去して以降は「御部屋様」と称され
世子生母の扱いを受けたが、
家基は安永8年(1779年)
18歳の若さで急死するという凶運に見舞われた。

天明6年(1786年)
家治が逝去すると、
落飾して「蓮光院」と称し、
同年11月3日
江戸城二の丸へと居を移した。

寛政3年(1791年)3月8日、
55歳で死去した。

文政11年(1828年)
従三位を追贈された。

御台所および将軍生母以外の
大奥の女性が叙位された珍しい例である。

ドラマ大奥 主要登場人物  お知保