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2024/03/31

ヒトデの有効活用

3月31日
日曜日

ヒトデの有効活用

海の生き物のヒトデ
大量に発生しては貝類などを食い荒らすので
漁業にとっては天敵。

あるテレビ番組でやっていたのですが

とある業者が
ヒトデを回収して
大量に廃棄する為に
おがくずと混ぜて堆肥にしていたところ
カラスが来ない事に着目。

調べて見ると
ヒトデに含まれるサポニンと言う成分が
紫外線を受けると強く発光するので
人間には見えないけれど
どうやらカラスにとっては
非常に眩しいらしいのだ。

カラス避けに
サポニンのシートを作って
街路樹などにぶら下げて
カラスを撃退している自治体もあるようだ。

ヒトデの有効活用

2024/03/30

ドラマ大奥 主要登場人物 平賀源内

3月30日
土曜日

ドラマ「大奥」
登場人物シリーズ最終回

平賀源内
(味方良介)

平賀 源内(ひらが げんない)

享保13年(1728年) - 安永8年12月18日
(1780年1月24日))

江戸時代中頃の人物。

本草学者、地質学、蘭学者、医者、殖産事業家、
戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。

讃岐国寒川郡志度浦
(現在の香川県さぬき市志度)の
白石家の三男として生まれる。

父は白石茂左衛門(良房)、母は山下氏。

兄弟が多数いる。

白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、
源内自身は信濃国佐久郡の
信濃源氏大井氏流平賀氏の末裔と称したが、
『甲陽軍鑑』によれば
戦国時代の天文5年(1536年)11月に
平賀玄信の代に
甲斐の武田信虎による侵攻を受け、
佐久郡海ノ口城において滅ぼされた。

後に平賀氏は
奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、
さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、
讃岐で帰農した伝承がある。

源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。

幼少の頃には掛け軸に細工をして
「お神酒天神」を作成したとされ、
その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、
儒学を学ぶ。

また、
俳諧グループに属して俳諧なども行う。

寛延元年(1748年)に父の死により
後役として藩の蔵番となる。

宝暦2年(1752年)頃に
1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、
医学、油絵などを学ぶ。

留学の後に藩の役目を辞し、
妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大坂、京都で学び、
さらに宝暦6年(1756年)には
江戸に下って本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして
本草学を学び、
漢学を習得するために
林家にも入門して聖堂に寄宿する。

2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。

宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、
産物のブローカーなども行う。

物産博覧会をたびたび開催し、
この頃には
幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。

宝暦9年(1759年)には
高松藩の家臣として再登用されるが、
宝暦11年(1761年)に
江戸に戻るため再び辞職する。

このとき「仕官お構い」(奉公構)となり、
以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。

宝暦12年(1762年)には
物産会として第5回となる
「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。

江戸においては知名度も上がり、
杉田玄白や中川淳庵らと交友する。

宝暦13年(1763年)には
『物類品隲ぶつるいひんしつ』を刊行。

オランダ博物学に関心をもち、
洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、
オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。

文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。

明和年間には産業起業的な活動も行った。

明和3年(1766年)から
武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、
石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。

秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。

現在でも奥秩父の中津峡付近には、
源内が設計し長く逗留した建物が
「源内居」として残っている。

安永2年(1773年)には
出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永8年(1776年)には
長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を
修理して復元する。

安永8年(1776年)
夏には橋本町の邸へ移る。

大名屋敷の修理を請け負った際に、
酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして
大工の棟梁2人を殺傷したため、
11月21日に投獄され、
12月18日に破傷風により獄死した。

享年52。

獄死した遺体を引き取ったのは
狂歌師の平秩東作ともされている。

杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、
幕府の許可が下りず、
墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。

ただし晩年については諸説あり、
上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、
後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、
田沼意次ないしは故郷高松藩
(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて
天寿を全うしたとも伝えられるが、
いずれも詳細は不明。

大正13年(1924年)、従五位を追贈された。

ドラマ大奥 主要登場人物  平賀源内

2024/03/30

妻がうるおう日

3月30日
土曜日

妻がうるおう日

2015年(平成27年)3月30日

アミノコラーゲンヨーグルトの発売を記念して、
株式会社明治が制定。

妻がうるおう日って
なんじゃそりゃ!?

妻はうるおって貰っている方が
もちろんいい事ですけどね。

妻がうるおう日