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2024/03/30

ラーメンまこと屋長田南店 チーズトマト酸辣湯麺

3月29日
金曜日

週末立ち飲み
〆の炭水化物

ラーメンまこと屋長田南区店

チーズトマト酸辣湯面

こだわり酒場のレモンサワー

ラーメンまこと屋長田南店  チーズトマト酸辣湯麺

2024/03/30

週末立ち飲み 大畠商店

3月29日
金曜日

週末立ち飲み

大畠商店

生ビール
ハイボール2杯

ホタルイカ
(富山産)
卯の花
牛肉スルメ

週末立ち飲み  大畠商店

2024/03/29

ドラマ大奥 主要登場人物 徳川家斉

3月29日
金曜日

ドラマ「大奥」
登場人物シリーズ最終回

徳川家斉
(鈴木 福)
(徳川第11代将軍)

徳川 家斉(とくがわ いえなり)

江戸幕府の第11代将軍(在任:1787年 - 1837年)。

8代将軍吉宗の曾孫。

10代将軍家治は養父かつ
従伯父(実父のいとこ)にあたる。

安永2年(1773年)10月5日

一橋家当主・一橋治済の長男として生まれる。

母は旗本岩本正利の娘・富子。

安永8年(1779年)
第10代将軍・徳川家治の世嗣・徳川家基の急死後、
父と田沼意次の後継工作、
ならびに家治に他に男子がおらず、
また家治の弟である
清水重好も子供がいなかったことから、

天明元年(1781年)閏5月
家治の養子になり、
江戸城西の丸に入って家斉と称した。

天明6年(1786年)
家治が50歳で病死したため、
天明7年(1787年)
15歳で第11代将軍に就任した。

将軍に就任すると、
家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、
代わって徳川御三家から推挙された
陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった
松平定信を老中首座に任命した。

これは家斉が若年のため、
家斉と共に第11代将軍に目されていた
定信を御三家が立てて、
家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。

定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。

寛政元年(1789年)
島津重豪の娘・近衛寔子と結婚している。

寛政の改革では
積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、
厳格過ぎたため次第に
家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、
さらに尊号一件なども重なって、
次第に家斉と定信は対立するようになった。

寛政5年(1793年)7月
家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、
寛政の改革は終わった。

ただし、
松平定信の失脚はただちに幕政が
根本から転換したことを示すわけではない。

家斉は定信の下で幕政に携わってきた
松平信明を老中首座に任命した。

これを戸田氏教、本多忠籌ら
定信が登用した老中たちが支える形で
定信の政策を継続していくことになる。

このため彼らは寛政の遺老と呼ばれた。

文化14年(1817年)に松平信明は病死した。

他の寛政の遺老たちからも、
老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきた。

このため
文政元年(1818年)から、
家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、
牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを
幕政の中枢部から遠ざけた。

忠成は定信や信明が禁止した贈賄を
自ら公認して収賄を奨励した。

さらに家斉自身も、
宿老たちがいなくなったのをいいことに
奢侈な生活を送るようになり、
さらに異国船打払令を発するなど
たび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗
・綱紀の乱れなどが横行した。

忠成は財政再建のために
文政期から天保期にかけて8回に及ぶ
貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、
これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。

文政10年(1827年)
太政在院年数が40年になったため
自分から朝廷に働きかけるようになり
太政大臣に任じられる。

天保5年(1834年)
忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から
西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。

しかし
実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、
家斉による側近政治はなおも続いた。

この腐敗政治のため、
地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、
天保8年(1837年)2月
大坂で大塩平八郎の乱が起こり、
さらにそれに呼応するように
生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、
次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。

また同時期にモリソン号事件が起こるなど、
海防への不安も一気に高まった。

天保8年(1837年)4月
次男・家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。

最晩年は
老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を
重用している。

天保12年(1841年)閏1月7日に死去した。

享年69(満67歳没)。

栄華を極めた家斉であったが、
最期は放置されたままに息を引き取ったと伝えられ、
侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された
(『井関隆子日記』)。

なお、
死亡日は『井関隆子日記』には
閏1月7日と記されているが、
『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、
幕府が死を秘匿したと考えられている。

家斉の死後、
その側近政治は幕政の実権を握った
水野忠邦に否定されて、
旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。

そして
間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、
老中や幕府の役職を辞任する事態となった。

ドラマ大奥 主要登場人物  徳川家斉